基本データ・おススメ度
『モールス』
原題: Let Me In
2010年 アメリカ
監督:マット・リーブス
出演:クロエ・グレース・モレッツ、コディ・スミット=マクフィ、リチャード・ジェンキンス、イライアス・コティーズ
おススメ度 ★★★★★(5/5)
舞台は雪国。白い雪と赤い血の対比が美しい、ヴァンパイアの少女と12歳の少年の絆と宿命の物語。クロエ・グレース・モレッツのイメージを決定づけた傑作。絵的にホラー要素ありなので苦手は人はご注意を。観る人を選びますが。
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◆目次
あらすじ(ネタバレなし)
【舞台は、雪に閉ざされた田舎町。学校でのいじめに悩む孤独な少年・オーウェンは、ある日隣家に引っ越して来た少女・アビーと知り合う。オーウェンは、自分と同じように孤独を抱えるアビーのミステリアスな魅力に惹かれていき、何度か会ううちに2人は仲良くなり、壁越しにモールス信号で合図を送りあうようになる。しかし、時を同じくして町では、残酷な連続猟奇殺人事件が起きていた。】
いじめられっ子・オーウェンが住むアパートの部屋に、不思議な少女・アビー(クロエ・モレッツ)が引っ越してきた。彼女はなんと雪の中を裸足で歩いている。
街では連続猟奇殺人が起こっていた。犯人はアビーの父親(と思われていた人)だったが、ある日、へまをやらかして捕まりそうになり、自分で顔に硫酸をかけて身元を隠す。そして病院から投身自殺をした(ように思われた)。
オーウェンはアビーのことが気になっていた。「友達にはなれない」というアビーだったが、どうしても彼女のことが気になる。アビーも「いじめられてばかりじゃダメ。やりかえせばいい。」などとアドバイスをする。仲良くなる二人。
しかし、ついに、アビーがバンパイアであることを知る。
==以下ネタバレ==
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ネタバレあらすじ
アビーは永遠の12歳で、お父さんだと思っていた人は、彼がまだ少年の頃にアビーと知り合い、数十年も、アビーの「食事」である人間の血を調達しながら生きていた。それが猟奇殺人の正体だった。
オーウェンはアビーの言葉に勇気づけられいじめっ子たちに反撃する。報告を受けたアビーは喜ぶが、それが、最後の惨劇につながるとはこの時は思いもせず…、
食事を調達してくれる人がいなくなり、仕方なしに自分で人間を襲いだしたアビーだったが、家宅捜査にきた刑事まで殺してしまい、もう街には居れないと悟る。
街を出ていったアビーだと思われたが、オーウェンがいつものようにいじめられっ子にいじめられ、プールで危険な状態になった時。どこからかアビーが現れ、いじめっこたちを惨殺する。
汽車に乗り、二人でどこかの街へいく二人。
つまりこんな映画(語りポイント)
スウェーデン映画「ぼくのエリ200歳の少女」のリメイク。脚本的にはほぼ同じだが、原作小説の「MORSE」も含め、それぞれに微妙な設定の違いはある。設定としては微妙な変化ながら、映画の場合はそれが見せ方にもかかわってくるため、観客にとっては大きな印象の違いにもなる。
語るべき点が多い映画ではあるけど、ここでは、ヴァンパイア独特の「宿命」と、少年オーウェンの覚悟について。
例えば、僕らに永遠に命があるとして、400年後に、現在では考えられないような物を食事として食べているのが当たり前の世界になっていたとしたらどうだろう。「パンを食べるなんて、肉を食べるなんて、草を食べるなんて、なんて残酷な!」という世界になっていたとしたらどうだろう?
周りの人が食べている物は食べることができない、食べると吐いてしまう。なにか食べないと死んでしまうんだ。そんな状況なら、きっと、密かに、遠慮がちに、食べ物を調達しながら身を隠して生きていくだろう。それが良いことか悪いことか、そんなことは関係なくなっているはずだ。
それが、アビーにとっては「人間の血」。
「血を飲まなければ死んでしまう」これは運命ではなく宿命。
「そうしなければ生きていけない。」選択肢のない宿命に追われながら、あくまで遠慮がちに、ただ生きているだけのアビーに悪気はない。むしろ「申し訳ない」と自覚している感さえある。 ヴァンパイア物は個人的に大好きなのですが、そこにはそんな「宿命」が描かれていることが多いから。
また、少年オーウェンが、アビーと共に旅に出るという選択はかなりヘビーだ。少年だからわかっていないとは思えない。想いだけに動かされた衝動的な行動ではないと思う。オーウェンはきっと自分の末路を悟っている。子供だけどそれくらいわかる。自分の顔に硫酸をかけて死んだオジサンと後を継いで、アビーのために生きる覚悟を決めている。それが最終的には破滅に向かう道だとわかっていても「自分を理解してくれる唯一の人のために。」そのためには、相手の宿命をも受け入れ、生きる覚悟。
それは、僕らの世界に当てはめれば「夫婦愛」「家族愛」あるいは、この世で最も献身的な愛といえる「我が子に対する無償の愛」に等しい。
愛する人の宿命をも受け入れる。たとえ周りがなんといおうと。誰かと一緒に生きるとはそういうこと。