基本データ・おススメ度
『最後の晩餐/平和主義者の連続殺人』
原題:The Last Supper
1995年 アメリカ
監督:ステーシー・タイトル
出演:キャメロン・ディアス、ロン・パールマン、ロン・エルダード、アナベス・ギッシュ、ジョナサン・ペナー
おススメ度★★☆☆☆(2/5)
ほぼ一幕で進行する舞台劇のようなブラック・コメディ。5人の若者が、自分たちと思想の合わない保守派の人間を食事に招待し,次々と毒殺していく。『思想』の怖さ、人間の愚かさを皮肉った映画。題名がありきたりでもったいないですが、面白い映画です。若きキャメロン・ディアスが見れますが、美脚は見れません。上映時間も長くないので、観て特に損したとは感じないはず。舞台劇やブラック・コメディが好みなら。
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◆目次
あらすじ(ネタバレなし)
時は1960年代。アイオワ州の一軒家で共同生活する若者たち。彼ら5人は大学院生。テレビでは、保守派のノーマン(ロン・パールマン)が早口でまくしたてている。
雨に中、仲間のひとりがトラックの運転手に送られて帰宅する。仲間を送り届けてくれたお礼にと、運転手を食事に招待する。しかし、男は帰還兵で、五人の左寄りの思想が気に入らない。論争からついに怒り出しナイフで脅してきた。すったもんだの末、5人は男を刺し殺してしまうが、「保守派だったから」「これは正義だ」と思い込むことにする。
この殺しをきっかけに「保守派のやつらは許せない」「殺したい」と言い出す5人。毒入りのワインを作り、保守派とおぼしき人間を食事に招待して審判にかけ「アウト」と判断した場合は「乾杯しよう」の合図で毒入りワインを奨め、殺そうという計画を立てる。すべては「良い世の中にするため。」
==以下、ネタバレ==
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ネタバレあらすじ
以後、5~6人の人間が晩餐に招待され、彼らと会話を交わす。発言に問題が出た途端、誰かが「乾杯」の提案をする。異議がなければ乾杯に応えるというルールの元、一方的な裁判⇒処刑が繰り返される。
そのうち「『ライ麦畑でつかまえて』は最低の物語」と言っただけの女性が殺されたり、性教育に対して意見のある17歳の少女まで殺されそうになったり、見境がなくなってくる。もはや、殺すことを前提に招待しているよう。
殺した人間は庭に埋められ、墓の上にはトマトの種が植えられた。やがてお墓は華やかになってくる。
殺すかどうかの結論は合議によるとのルールも、そのうち曖昧になり、自分の思想を優先しフライング気味に毒をもったり、時には「ワインをなかなか飲まないから」とナイフで刺し殺したり、無法地帯と化してくる。
最後の招待客は、冒頭でテレビに出ていた有名人、ノーマン。
しかし、話してみるとノーマンはテレビで吹聴しているような意見とは違う意見を述べ出し、5人が今回の計画の基準としている考え方「幼い頃のヒトラーに会ったとしたら、君は彼を殺すか」という問いに対しても「俺なら話し合う。彼を論破する自信があるから。」と、平和主義な考えを述べる。
別室に集まり相談する5人。「こんなチャンスはない。殺してしまおう」という意見もあれば「彼が言ってることは正しい。」という意見も出る。論議の末、彼を殺さないという結論に至る。
その間、ノーマンは部屋を物色し、庭の墓を眺め、5人がやっていることを悟る。
食卓に戻って来た5人。ノーマンの乾杯の音頭で、同時にワインを飲み干す。
エンドタイトル。アニメーションにて、ノーマンの足元に倒れている五人の絵。「俺は左でも右でもない。中立派だ。」と言っていたはずのノーマンが、選挙に立候補している音声。
つまりこういう映画(語りポイント)
当時のアメリカのご時世、リベラル、保守派…云々の話は、ネット上の他の方のレビューで既に語り尽くされているようですし、なにより、僕が政治系の話にウトイので割愛します。ここでは「僕のように政治にウトイ人が、この映画から感じるべきこと」を書きます。
『思想』の怖さ、人間の愚かさ
僕は、人間にとって「生まれてきた理由」なんて「そんなものない」と思っています。だから「どうして生まれてきたんだ」などと必死に考えても答えなんて出なくて当たり前。ただ、生きていくために理由がないとちょっと困るので、それは自分でみつけていく。「生きていく理由」は、それぞれがみつけていくもの、あるいは自分で作りだしていくもの、そう思っています、そのうえで…。
産まれてきた時点で人間が「空胴」であるとすると、人の行動をつかさどるものは、生きてく中でいつしか身についた「思想」によると考えられる。
「思想」によって人間ができる。あるいは「思想」によってなんとでも変わる。
それがアイデンティティーそのものであるから、だから、命を賭けてでも、誰かを抹殺してでも、自らの存在理由を守るために戦う。これは怖いこと。だから、思想を支配すれば他人を自由に動かせる。マインドコントロールですね。
この映画は、そんな「薄っぺらい、日和見主義な人類に対する皮肉」
殺すかどうかは合議によって決めるとされていながらも、結局、自分の思想を優先し「悪いが、そのルールには従えない」と言うシーンがありますね。ルールさえ、思想を通すための便宜上の建前でしかなく、みんなで決めたルールさえ破ってしまう、破らざるを得ないほど、ひとは思想に支配されているということ。
そのあたりを一番わかっているのは、最後に呼ばれた客・ノーマンで「俺はどっち派でもない」と言いながら、他人の思想をコントロールする立場の大統領に立候補しているというラストもブラック。
非常に舞台劇チックな映画。ほぼ一幕ですし、コメディ舞台が好きな人なら好みでしょう。
ただ、ラストの脚本は、もうちょっとヒネリが欲しかった。「ノーマンが5人を殺す」は、ほぼ予想できるだけに。「最後そう来たか!」があったら評価が2段階くらい跳ね上がる映画。全体的には非常に面白いだけにもったいない。
そんなことより「もったいない」と思うのは、キャメロン・ディアスの美脚。
彼女の売りである美脚がフューチャーされないのは、まだ彼女がさほどビッグになる前だったもので、、プロデューサーや監督が「このコは美脚を見せてナンボ」ということに気付いてなかったのでしょう。キャメロン・ディアス使っといて脚を写さないなんて、あーもったいない。