基本データ・おススメ度
『袋小路』
題:Cul-de-sac
1966年 イギリス
監督:ロマン・ポランスキー
出演:ドナルド・プレザンス、フランソワーズ・ドルレアック、ライオネル・スタンダー
おススメ度★★★☆☆(3/5)
「頭おかしい(ホメてる)」ロマン・ポランスキーの長編三作目。『反撥』『水の中のナイフ』と合わせて初期白黒三部作と言われている。ポランスキの根幹にある「俗物な人間への皮肉」が当然のように脈づいている。孤島の古城という準密室、コメディ要素もある軽い不条理劇。登場人物も少なくわかりやすい。気楽に観れます。カトリーヌ・ドヌーブのお姉さん、フランソワーズ・ドルレアックが綺麗。
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▼目次
あらすじ(ネタバレなし)
手負いのギャング二人が銀行強盗に失敗。負傷を追いながら逃げてきたのは、一日に2回、満潮によって孤島状態になる土地、そこにポツンとそびえたつ古城。
そこには、神経質で見栄っ張り、社会性が欠如しているため何度か結婚に失敗している男・ジョージ(ドナルド・プレザンス)が、10ヵ月前に結婚した若妻テレサ(フランソワーズ・ドルレアック)と悠々自適に暮らしていた。
しかし、妻のテレサは、隣の島に住んでいるという若者と浮気をしている。
夫婦の関係は、映画の最初から様子がおかしく、あきらかに弱気で変わり者の夫ジョージに対してすっかり呆れている様子のテレサ。そもそも結婚した動機は、ジョージの経済力だけなのかも知れない。
ギャングのリチャードは、重症を負って動けない相棒のアルビーを車内に残し、古城に侵入する。夫婦二人で漫然と過ごしていた古城に当然の侵入者。外界と接することで二人の間にも変化が訪れる…。
==以下、ネタバレ==
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ネタバレあらすじ
リチャードはギャングのボスに電話をかけ居場所を伝えると、ナイフで電話線を切ってしまう。夫婦が警察を呼ぶのを妨害するためだ。拳銃で夫婦を脅したリチャードは「仲間(ギャング)が迎えに来るまでここにいる」と宣言。
二人を引き連れて、車に置き去りにしていたアルビーの元へ行くと、道路だったはずの場所は、満潮で、すでに海水が腰の高さほどに到達していた。なんとかアルビーを助け出した三人だが、アルビーは城で息を引き取る。
テレサは、抵抗もせずただ言いなりになっている夫・ジョージに苛立つ。「俺は軍隊にいた。」という話が嘘だということもバレる。
夫婦の部屋に外から鍵をかけて閉じ込めたリチャード。スコップで墓穴を掘っているところへ、窓から脱出してきたテレサが来る。旦那は寝ている。「何をしてるの?」と聞くテレサに「黄金を探しているんだ」などとトボけるリチャード。一度城内に戻り、自分とリチャード用にお酒を持ってくるテレサ。そこでアルビーが死んだことを知ったテレサは墓穴掘りを手伝う。
そこに客人がやってくる。リチャードの親戚っぽい家族。なんとか取り繕うジョージに対し、テレサは、客人家族の前でリチャードを城の使用人という設定にしてしまい、あれこれとこき使う。仕方なく、芝居につきあうリチャード。
テレサは一緒に来訪した男前の中年男に色目を使う。8歳くらいの子供は勝手にあっちこっちを走りまわり、テレサが気に入っているレコードに傷をつけたり、猟銃で高価なステンドグラスをぶち壊す。さらにジョージの前妻アグネスの名前を出したり、あれこれ詮索してくる老夫婦。タイミング悪く、テレサの浮気相手の男も訪ねてくる。
最終的に客人を追い出したのは、ギャングのリチャードではなく、混沌とした状況にブチ切れたジョージだった。「出ていけ!ここは俺の場所だ!」
再び三人になった城、ジョージとリチャードは疲れて眠りこける。ひとりで退屈そうにしていたテレサは、悪戯で、リチャードの足の指の間に挟んだ新聞紙に火をつける。熱さに飛び起きたリチャードは怒り、テレサを倒してまたがりムチでセッカンする。
その音で目を覚ました夫ジョージに「(リチャードが)私を襲おうとした。『男を教えてやる』って言って無理やりに…」と嘘をつく。嘘を信用したジョージは、リチャードを銃で脅す。
その場を離れたリチャードは電話線を再びつなげてボスに電話をかけるが「知ったこっちゃない」という冷たい返答を受け、電話機を叩き壊す。もう助けは来ない。
その間に、リチャードの上着のポケットから銃をこっそり抜き出すテレサ。銃を奪われたことに気付いて夫婦に詰め寄るリチャードをジョージが銃撃。まともにj被弾するリチャード。負傷した身体で城下に降り、車に積んであったマシンガンを取りだす。マシンガンを向けられた夫婦は、お互いの身体を盾にして自分が隠れようとする。ジョージは息絶えながらマシンガンを乱射、車と、鶏小屋が派手に燃えだした。
そこに、忘れモノ(猟銃)を取りにきた昼間の中年色男がやってくる。ジョージは精神的に壊れてしまい、テレサの部屋に行くと、彼女の身の回りの物を旅行用バッグに詰め込み「出て行け」という意思を示す。テレサも、言われなくても出ていくとばかり、中年色男の車に乗り込み、城を去っていく。
去っていく車を見送りながら、城内に戻ったジョージは、大切にしていたテレサの肖像画や自分の絵を蹴散らすなど、部屋でひとりで暴れる。
満潮になった海へ走っていったジョージは、岩場に座り「アグネス…」と前妻の名前を呼びながら泣き崩れた。
つまりこういう映画(語りポイント)
ポランスキー監督の中には、「人間の俗物根性」への皮肉や恨みが満ち溢れている。これ以上ないほどに波乱万丈の人生を歩んだ人だから、まともな家庭環境で育った人にはそうそう理解できない歪んだ感性が充満しているのだろう。個人的には大好きですが、そういうの。
『水の中のナイフ』にも『赤い航路』にも、この『袋小路』にも登場するのが「俗福な夫婦」。俗物性の象徴である彼らが、他者と絡むことで破綻していく(破綻しそうになる)姿を描くのが当時のポランスキーの得意技らしい。
「人間は愚か」「人間は欲深い」が基本線にあるのだけど、かといって、とことん「頭がおかしい人(ホメてる)」ではなく、しっかり、映画を成立させようとする冷静さと計算はある。だから「鬼才」で終わらず「巨匠」になったのだろうけども。
例えばこの「袋小路」では、ギャングのリチャード。彼は犯罪者でありながら、ところどころに人間の優しさや人情味を感じさせるキャラになっている。死んだ相棒に対して敬意を表し、頑張って墓穴を掘る。遺品のメガネを大切にポケットにしまう。妻のテレサに対しても、何度か全裸のテレサに遭遇しようとも決して卑猥な視線を送ることもなければ、銃で脅している立場(権力)を利用して欲望を処理しようともしない。まるで純真な少年のような愛すべきキャラにしている。
中盤、自分の髭をジョージに剃らせるシーンがある。監禁している相手にカミソリを持たせ自分の顔に刃を向けさせる行為は、敵対心や警戒心がなくなっている証拠であり、「実はお人よしの善人」であろうリチャードの素顔が垣間見える。
かたや、悠々自適な生活を送る夫(名優・ドナルド・プレザンス!)を、悪意を込めて、弱気で嘘つきな人格破綻者として描いている。
そして、その間にいる妻・テレサは「普通の人」。いや普通じゃないだろ?めっちゃ欲深い変わった奴じゃん!という意見もあるでしょう。でも違うのです。「人間は欲深い」が基本にあるわけなので、あの程度の私欲や計算は、つまり普通なのです。
全体に緊張感は皆無で、不条理な舞台劇のように呑気なムードの中で映画が進行しますが、それゆえに「普通の人間の狂気」が滑稽に光る。テレサは、銃で脅されながらも、緊張感も危機感も抵抗する気もゼロ。あくまで男二人をバカにした振る舞いを続ける。その感じが個人的にツボ。
マシンガンを向けられお互いの身体を盾にし合う夫婦の姿は、二人の本音を描くには非常にわかりやすい演出。
子供が盤面に傷をつけたために、同じ場所から先へ進まなくなったレコード…は、もう我慢の限界!という妻テレサの心情を現したメタファーか。
「反撥」ほどのシリアスなサスペンスではないし衝撃的なシーンもないから、盛り上がりが足りないという意見もあり、評価の分かれる同作ですが、僕はかなり好きな部類の映画です。