【映画で語ろう】カムシネマ★3分で語れるようになるポイント【ネタバレあらすじ】

映画を観たなら語りたい。映画の紹介から、ネタバレあらすじ、著者の独断と偏見による「語りポイント」まで。

3分で映画『青い珊瑚礁』を語れるようになるネタバレあらすじ

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基本データ・おススメ度

『青い珊瑚礁』
原題:The Blue Lagoon
1980年 アメリカ
原作:ヘンリー・ドヴィア・スタックプール『青い珊瑚礁』
監督:ランダル・クレイザー
出演:ブルック・シールズ、クリストファー・アトキンズ、レオ・マッカーン、ウィリアム・ダニエルズ
 おススメ度★★★★☆(4/5)
 当時14歳のブルック・シールズ主演のアイドル映画…と見ればそう見えるし、実際にそうなのでしょう。ただ、この映画、僕は評価が高いです。CGでもアニメでもない実写でのファンタジー、おとぎ話。「最小限の舞台設定で、最大限にテーマを伝えている」ところは、シンプル・イズ・ベストな映画の教科書。「人間とは?」「家族とは?」というテーマは、普遍的だけど深い。

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◆目次

あらすじ(ネタバレなし)

 8歳のリチャードと7歳のエメラインは、エメラインの叔父であるアーサーに連れられ船旅の途中。彼らの両親はすでに他界していた。

 「人は死んだら神様に天に連れていかれちゃう。君たちが歳をとって死ぬ時、迎えに来てくれるんだよ。それまで会えない。」と教えられている。

 料理人のパディは荒っぽいオヤジで、二人になにかと説教をする。

 船内で火事が起こり、乗組員たちは小舟で脱出する。リチャードとエムは、パディと三人で小舟に乗る。アーサーは二人を探し、無事であることは確認するが、お互いの舟は離れていってしまう。

 パディは漂流する舟の上で「太陽が沈むとき、音がするぞ」と、また適当な嘘の知識を二人に語る。どれくらい時間がたったか、三人の船は島に流れ着く。

 島には、真水やバナナも豊富にありあり、喜ぶ三人だったが、ラム酒の入った樽と人間の白骨も発見。「ここにいちゃいかん」と、移動する。

 赤い実を食べようとしたエムに「食べたら永遠の眠りにつく、食べちゃダメだ。」と怒るパディ。「船が来たら急いで合図の火をつけろ。」と言いつつ、島でのサバイバル術を二人に教えていくパディ、

 「海で泳げ」と言うパディに「水着がない、無理」と言っていた二人だが、一旦、裸で泳ぐのに慣れたあとは、いつしかパディのほうが「服を着ろ」と言うことになるが、二人は「服なんてないもん」と裸で泳ぐようになる。

 三人で、家やさまざまな物を作り、焚き火をする。オヤジと幼い二人、三人の無人島生活。楽しそう。
 
 ある日、パディは島の反対側で恐ろしいものを見た。二人に「島の反対側にはブギーマンがいる。決して言ってはいけない」と言うパディ。

 パディが命を落とす。ラム酒で酔っ払って夜中に海に出て、溺れたのだろう。砂浜にうちあげられたパディの死体の口からカニが出てくるのを見たエムは気絶してしまう。

 まだ幼いりチャードとエム、二人きりの生活が始まった。

==以下ネタバレ==

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ネタバレあらすじ

 14~15歳に成長したリチャードとエム。

 海中を泳ぎ、食物を捕るのもお手の物。リチャードは海中から拾ってきた真珠を靴下に入れて、クリスマスにエムにプレゼントする。

 「パディは嘘つきだ」と話す二人。虹の端に黄金の壺があることも、地球を掘れば裏側の中国に出ることも、サンタクロースも、全部嘘だったと。

 エムが叫び声をあげる。川で泳いでいるとき、血が出てきたのだ。初潮だったが、二人とも、それが何かわからず戸惑う。
「どうしてカラダから血が出るんだ?血が出るのは怪我をしたときだ。見せて見ろ」というリチャードに「嫌」というエム。

 ある日、島の反対側にいってみたエムは、そこに大きな石像を見る。石像の下に血が流れて来て、驚いて逃げる。リチャードに報告すると「どうして反対側へ行ったんだ。行かないルールだろう。」と怒る。

 やたら、エムの身体が気になりだすリチャード。首筋に顔を近づけたりするリチャードに「やめて!近づかないで!」と怒るエム。

 翌日、岩場で自慰をしているリチャードを見て「なにしてるの?」と近づこうとしたエムに「来るな!」と言うリチャード。

 船が通りかかった。リチャードは頑張って手を振ったりするが気付かれず船は行ってしまう。エムは合図の火をつけなかった。それに怒ったリチャードが「ひとりでシスコに帰る」といかだを作って海に出るが、いかだはすぐに壊れてしまう。それを陸から笑って見ているエム。

 二人の仲が悪くなった。「この島が永久の家なのよ」とあきらめたように言うエムに「なにを言ってるんだ」と怒る。身体への接触を拒否られたショックもあり、リチャードはエムを家から追い出す。

 岩場で寝泊まりするようになるエム。

 エムは、反対側の石像、ブギーマンに花を供えている。

 と、エムが海の中で棘のある魚を踏んでしまい、体調を崩す。倒れたエムを心配して、反対側の石像の前まで連れて行き、「神様、助けてください。エムがいなくなったら生きていけない。」と心境を吐露する。

 ※ここでエムの胸が写りますが、吹き替えらしいです。

 岩場でじゃれあっている流れから、リチャードはエムにキスをする。妙な気分になった二人は、その意味がわからず「お腹のあたりが変だ。それに動悸がする。」「私も。」と言い合い、二人は結ばれる。

 それから二人は、もはや自然な行為として、島のいたる場所で愛しあう。海中で交尾をしているカメをみて微笑む二人。

 エムが妊娠したようだ。しかし、二人には意味がわからない。食欲が旺盛になり、つわりも始まる。エムのお腹を触ると、なぜかお腹が動く。「なぜお腹が動くんだ?」と驚くリチャード。

 ある日、太鼓の音が聞こえたので島の反対側へ行って見ると、原住民らしき部族が踊りながら、男を殺していた。何かの儀式か。慌てて逃げかえるリチャード。

 リチャードが戻ると、エムの叫び声が。子供が産まれた。

 赤ちゃんに何を食べさせればいいのかわからずに困っていたら。たまたま抱き上げたエムの乳首を吸い出す赤ちゃん。「?」となる二人。赤ちゃんはパディと名付けられた。

 ひさしぶりにパディと暮らした島へいってみるリチャード。白骨化したパディの手やあばら骨を見ながら、自分の手や胸と比べてみる。

 赤ちゃんに泳ぎを教える二人。すっかり泳ぎを覚える赤ちゃんパディ。

 二人を捜索に来たアーサーの船が通りかかった。船員は浜で泥遊びをする三人を発見。エムもリチャードも船にきづくが、目をあわせて笑いあい、助けを求めずにその場を去っていく。それを見たアーサーが「彼らではない」と判断して帰っていった。

 エムが、パディと暮らした島へ行きたいと言い出し、三人は小舟で島へ向かう。懐かしい物の残骸がたくさんある。

 リチャードがバナナを取っていると、エムは小舟の上でウトウトしてしまい、赤ちゃんパディともども海に流されていく。きづいたリチャードも追いかけて小舟に乗るが、近づいてきたサメを追い払うために、オールを海に投げ入れてしまう。

 どうすることもできず、流されていく小舟。

 漂流する三人。夕陽が沈んでいく。「太陽は沈む時、音がするんだよね」とパディに聞いた話をする二人。

 赤ちゃんパディが、「食べたら永遠の眠りにつく」赤い実を食べてしまう。絶望した二人は、自分たちも赤い実を食べ、三人で寄り添って眠りにつく。

 アーサーの船が3人の小舟を発見する。「死んでるのか?」「いや、眠っているだけだ。」三人はついに救出された。

つまりこういう映画(語りポイント)

 当時14歳のブルック・シールズと、オーディションで選ばれたシンデレラ・ボーイ、クリストファー・アトキンズを見るためのアイドル映画…と見ればそう見えるし、実際にそうなのでしょう。「それ以外になにもない」「退屈な映画」という意見も多いでしょうが、この映画、個人的には評価が高いです。名作とまで言ってしまいます。
 
 なにより「最小限の舞台設定で、最大限にテーマが伝わってくる」映画だから。シンプル・イズ・ベストな映画の教科書。
 
 「思春期の二人を描いた青春映画」「性の目覚め」…という表現も間違ってはいないでしょう。でも、それよりも、この映画が訴えたいことは「家族とは?」「人間とは?」の問いかけであり、明確に表現された文明へのアンチテーゼ。

 人間とは?自然とは?

 赤ちゃんがどうやって産まれるのか、なにを食べて育つのか、なにも知らない二人が、実際に性行為をし、妊娠し、出産し、子育てを始める。赤ちゃんのうちに海に入れて泳ぎを教えるのも、怖さを知らないからできることでもあるけど、それがむしろ自然なこと。

 動物はみんなそうやって、本能に従って行動し子孫を残しています。人間だって同じだという話。人間だって、本来は動物と同じなのだと。

 赤ちゃんができた後に、海中で交尾している亀を見て二人が微笑む場面があります。あれは、そのあたりを非常にわかりやすく描いたシーンです。性行為も含めて、すべては自然なことなんだと二人が受け入れた証。
 
 文明に背を向ける。

 近くを通った船に助けを求めず背を向ける。二度、そんなシーンがあります。一度目はブルック・シールズが、二度目は二人とも。二人が背を向けた船は「文明」のメタファー。ずっと島で育った二人には、文明の意味さえまだ良くわからないはずなのだけど、きっと本能的に「文明社会の末路」を知っているのだと思います。

 文明に頼りまくっている現在の僕らが、忘れかけている「なにか」。二人の中にある「なにか」を、僕らも(たまには)感じる必要がある。

 生と死 諸行無常

 白骨化したパディの手の骨を見て、リチャードが自分の手と見比べるシーン。「同じだ」ということですね。いずれ、自分たちも年老いて死んでいくんだ、骨になるんだ、と自覚する場面。

 生まれたばかりの赤ちゃんと白骨化したパディ。そこでリチャードが感じていたのは「生と死」そして「諸行無常」。きっと、生から死に至るまでのとてつもなく長い道程まで感じていたように見えた。芽生えたのは「不安」だったのかも知れません。この世に三人しかいない。「今」がいつまでも「今」ではないこと。自分たちの末路への「不安」が芽生えたシーンだと解釈しています。

 家族

 禁断の赤い実を食べてしまった赤ちゃんパディ。「食べたら永遠の眠りにつく」というのは、きっとおじさんパディが子供二人をいましめるために言った作り話に近いのですが、二人はそれを信じている。
 赤ちゃんが死んでしまうと悟った二人は、自分たちも赤い実を食べて一家心中を謀る。家族が「一蓮托生であるということ」家族のためなら「死んでもいい」という想い、映画が最後に明確に描きたかったのは、ストレートに「愛」でしょう。

 そういえば、10年近く、あきらめずに二人を探し続けていたアーサー叔父さんも「家族」だ。彼らが家族でなければ、きっと、とっくに捜索を打ち切っていたでしょう。

 必要なものは「愛」であり「家族」であると。「それさえあれば他になにもいらない」。それが、この映画のメインテーマ。

 普遍的だけど深い、良いテーマの詰まった秀作だと思います。