【映画で語ろう】カムシネマ★3分で語れるようになるポイント【ネタバレあらすじ】

映画を観たなら語りたい。映画の紹介から、ネタバレあらすじ、著者の独断と偏見による「語りポイント」まで。

3分で映画『わたしを離さないで』を語れるようになるネタバレあらすじ

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基本データ・おススメ度

『わたしを離さないで』
原題:Never Let Me Go
2010年 イギリス
原作:カズオ・イシグロ
監督:マーク・ロマネク
出演:キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ
 おススメ度★★★★★(5/5)
 原作は、カズオ・イシグロ氏の小説で、日本でドラマや舞台にもなった作品。ドラマは未見ですが。中身(テーマ)はほぼブレードランナーと同じ。「人間の勝手な都合により生産された『命』が、生まれて、生きて、そして死んで行く物語」。全編、非常に淡々と描かれている。それだけに、ラスト間際の「魂の絶叫」に涙腺が崩壊します。

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◆目次

あらすじ(ネタバレなし)

 冒頭、キャシーが無表情で手術室を覗きながら、手術台に乗せられた男性性・トミーを見ている。「わたしは介護人…」とのモノローグから、物語はキャシーの回想へ…。

 1978年。小学校低学年くらいの男女3人。キャシー、ルース、トミーは全寮制の学校にいた。日々、楽しく学び、過ごしている様子だったが…。

 どこかがおかしい。生徒たちは日々の食事も含め、妙に管理されているっぽい。しかし、当人たちには「普通じゃない」という感覚がない。彼や彼女たちにとっては、そんな生活が当たり前だと思っている。

 ある日、女性教師のルーシー先生が、生徒の前で「使命」を告げる。「普通の人は、大きくなったらいろんな職業に就く。でも君たちにはそのような未来はない。臓器を提供するために生まれ、ここで育った。長くても3回目の提供で、中年になることもなく終了する。」
 子供たちは、特にショックを受けるでもなく、淡々と聞いている。告げたルース先生のほうが動揺してしまい、ほどなく学園を去る。

 学園は、臓器移植のために生まれたクローン人間を育て、管理する施設だった。

==以下ネタバレ==

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ネタバレあらすじ

 仲の良いトミーとキャシーの間にルースが入り込み、ルースがトミーの恋人になる。感情に乏しくおとなしい性格のキャシーは、トミーを譲ります。

 学校では、芸術の授業が行われ、子供たちの作品を集めるギャラリーという存在があった。

 1985年。18歳になったキャシーたちは「コテージ」と呼ばれるところに移送された。そこで共同生活を送るのが規則だった。生活は楽しく、何組かはカップルになり、普通に、楽しく仲良く暮らしている。

 時折、外出も認められていたが、ある日、外出先でルースそっくりの人を見掛けた友人がいた。友人の提案で、数人で外出し、ルースの「オリジナル」を見にいくことにする。
 
 彼女たちはクローンで、それぞれにオリジナルの人間が存在した。

 みんなでレストランに行くが、注文の仕方がわからない。レストランでのマナーも知らない。社会に適合する方法を教わってこなかった彼女たち。
 ルースのオリジナルの勤務先を除くキャシーたち。室内には、ルースそっくりの人が働いている姿が見えた。すぐにその場を離れたキャシーたちだったが、ルースは動揺して、海辺で「違う。あの人はわたしじゃない。わたしたちのオリジナルはもっと悲惨な人たちよ。貧困だったり、ホームレスだったり、不幸な人たちに決まってるわ。」と叫ぶ。

 施設内では「真実の恋をしている二人は。それが証明できれば、臓器提供やその先にある死まで、猶予期間が与えられる」という噂が広がっていた。

 キャシーはやがて、臓器提供者の介護を行う介護士になるためコテージを出る。

 さらに10年後、キャシーは病院のPCでルースのカルテを目にする。同僚に「知り合い?」と聞かれ「うん。ただ、もう10年会ってない」という。廊下でルースと再会した。ルースはすでに2回の「提供」を行っており、カラダが弱っていた。
 「4回の提供でも死ななかったら、その後は、際限なく提供をし続けることになる。回復のための治療も行われない。それって最悪よね。」と笑う。「ずっとキャシーのことを考えていた。会いたかった。」というルースにキャシーも、微笑で返す。

 二人でトミーに会いにいき、三人が再会。ルースは「仲の良かった二人の間に入ったのはジェラシーだったの。」と二人に謝る。

 トミーとキャシーは、長い時を経てようやく結ばれる。 

 トミーは書き溜めた絵などの芸術作品をキャシーに見せ「猶予の申請にはきっとこれが必要なんだ。」「子供たちの作品を集めていたのは、魂のレベルを探るためなんだ。そこで認めらたら、きっと猶予が与えられるんだ。」と推測する。キャシーも、その説を信じようとした。

 二人は、学園を仕切っていたマダムの家を訪ね「猶予を申請しにきました」と告げるが、マダムは「猶予なんてないの。」「アート作品を提出させたのは、魂のレベルを図るためじゃない。魂があるかどうか?を調べるため。」との真実を告げる。

 帰路の途中、クルマから降りたトミーが絶叫する。キャシーがかけより、取り乱すトミーをきつく抱きしめる。

 冒頭の手術室。トミーの何度目かの提供が行われるところ。見守るキャシー。彼女のモノローグにより、その後、トミーの命が尽きたことがわかる。ルースもすでにこの世にいない。

 キャシーにもついに初回の提供が告げられた。ひとりで海を眺めるキャシーの独白。「わたしたちと、臓器提供される人たち、なにか違いがあるとは思わない。同じ人間。」「わたしたちは生きた。でも、生を理解する前に、早くに死が訪れる。」

 

つまりこういう映画(語りポイント)

 日本でドラマや舞台にもなっているので物語を知っている人は多いでしょう。原作は2017年にノーベル文学賞に選ばれたカズオイシグロ氏の小説なので、あらためて読んだ人も多そう。僕は、ドラマや小説は未見未読なので、2010年の映画しか知りません。

 中身はほぼ「ブレードランナー」です。

 テイストはまったく違えど、根底のテーマが同じ。設定上の「臓器移植のドナーとして生まれた(作られた)クローン人間。」は「労働力として作られたレプリカント」だし、そこに「死・寿命」が設定されているところも同じ。

 つまり「命」の物語。

 中身のテーマが同じであれば、外側の造りがどう違おうと「同じ作品」なのです。そこまで断言しないにしても「同じ意思の作品」には違いない。

 個人的に、ブレードランナー同様にこの映画もど真ん中です。

 人間の勝手な都合により作られた生命

 そんな命は、映画でなくても普段から僕らの身近にゴロゴロある。毛並みを綺麗にするために無理やりに異種配合・近親配合された犬猫たち。食べられるために養殖される動物。僕ら人間は、普段から、望まぬ命を作りあげては消費している。
 捕食が悪いという話ではない。生き物が生き物を食べるのは、昔からあるシステムであり、捕食により生物は命をつなぐ。捕食される側が、どれほどの意識と感情を持っているかは、種別ごとに個体差があるだろうし、すべてが「かわいそう」ということにはならない。

 「私たちは、生まれてきて、生を理解する前に、死が訪れる。それが運命。」キャシーが最後に語るモノローグが、それら全てをもの語る。

 それは、映画を観る僕らにとっては「自分たちにはどうすることもできない大きななにか」「運命」「宿命」のメタファーでしょう。

 わたしたちと臓器提供される人たちに、違いがあるとは思わない。

 同じDNAの同じ人間なのだから、おっしゃる通り、まさに何の違いもないのです。ただ、そこに生まれ、そこで育てられた、ただそれだけの違い。
 宗教的なことに言及する気はないですが、そこで問題になるのは「魂の存在」ということになります。彼女たちが単なるコピーであり戸籍も人権もないのはわかりますが、「魂が肉体に宿る」のだとしたら、彼女たちの魂は、オリジナルの人間とは違う、固有の魂があるはず。

 だからこそ、劇中でも学園の運営者たちは「魂があるかどうか」のテストをしていた。倫理的に許されることがどうかを判断するため…という大義名分ではあるが、実際は「自分たちの行為をを正当化するための作業」でしかなかったと思われる。どう転んでも「彼らには魂がない。だから殺していい。」という結論に導くためでしょうか。

 トミーの最後の絶叫は、きっと、人間たちの身勝手な思惑をようやくすべて理解しての絶叫だったように見えた。

 それでもまだ彼女らは、決められたサダメに従って生き、そして死んで行く。誰かが決めたに過ぎない、運命というものを受け入れて。

 小説も、救いようのない結末に賛否両論だったらしいですが、原作者のカズオ・イシグロ氏いわく「資産を作るとか、贅沢な暮らしをするとか、そんなことより、もっと大切なものがある。生きるうえで何が大切かを考えて欲しくて作った物語。」とのこと。非常にわかりやすい解説ですね。

 なにが大切? 

  ただ生きること。笑うこと。 泣くこと。誰かを好きになること。 愛し合うこと。想い出を作ること。 感謝すること。 そして…安らかに死んで行くこと。 そのために、今この時の「想い」を大切にすること。

 そんな映画。