基本データ・おススメ度
『真夏の素肌』
原題:Kak menya zovut
2016年 ロシア
監督:ニギーナ・サイフルローエワ
出演:コンスタンチン・ラヴロネンコ、アレクサンドラ・ボルティチ、マリーナ・ワイーリエワ、キリール・カガノービチ
おススメ度★★★★☆(4/5)
17歳の少女二人と41歳の孤独な中年男。三人の孤独と心の傷を、ロシアの海辺の町を舞台に切なく描いた物語。少女のひと夏の経験ストーリーのようで、それぞれの精神的に壊れた部分が描かれるなど、ややヘビーな青春映画。
「見せる(説明する)見せない(説明しない)」のバランスが絶妙で、観る側の洞察力、想像力を適度に刺激してくれる、映画的・脚本的センスの高い秀作。
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◆目次
あらすじ(ネタバレなし)
モスクワに住む17歳のサーシャとオーリャは、ロシアの西の島・アルプカにやってきた。二人は共に母子家庭で、生まれてから一度も父親に会ったことがなく、島に来た目的はオーリャの父・セルゲイに会うこと。オーリャにはすでに義理の父もいたが「実の父がどんな人か見てみたくなった」程度の軽い気持ちで、夏のバカンス気分でやってきたのだった。
いざ父親・セルゲイの家につくと、内気なオーシャは「やっぱりやめる。何を話していいかもわからない。」と臆する。社交的ですべてにおいて奔放なサーシャは「じゃ私がオーリャだということにすればいい。」と提案。二人は面白半分で嘘をつき、セルゲイの自宅にあがる。
結婚生活どころか女性と暮らした経験もない41歳の孤独な男・セルゲイは、極めて不愛想ながら二人のために部屋を用意する。元々、自宅を海辺の貸し部屋にしていて、別の部屋には中年女性も泊っている。一時の、奇妙な共同生活が始まった。
最初は、サーシャとオーリャが入れ替わっていることを純粋に楽しんでいた二人だったが、サーシャを娘だと思い込んでいるセルゲイと、自分もまた父親がいないサーシャが、まるで本当の親子のように振る舞いだすのを見てオーリャは疎外感を覚える。
やがて、二人の小さな嘘が、三人の孤独な人間の心の傷をあぶりだしていく。
==以下ネタバレ==
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ネタバレあらすじ
町に出るため私設タクシーに乗った三人。タクシーの運転手はキリルという若者。奔放なサーシャは「夜、クラブに連れてって。連絡ちょうだい」と逆ナンパする。そんな素振りを目にしてイラだつセルゲイ。
レストランでも「学校はいってるのか」と聞くが、サーシャは「卒業したばかり。でも大学も演劇学校も落ちた。」という。オーリャは名門の大学に合格していたが、サーシャを娘だと思っているセルゲイは、オーリャの大学の話には興味がない。
サーシャは陰毛を緑色に染めました。
キリルと合流し三人でデートに行くが、キリルはサーシャに夢中で、オーリャのことを気にもかけない。ここでも疎外感を味わうオーリャ。
夜、キリルと船上パーティに出かけたサーシャが船室でキリルとエッチなことを始めます。サーシャを素っ裸にしたキリルは、緑色の陰毛を見て「染めてるのか」という。シーンが変わると、なぜか途端に機嫌が悪くなっているサーシャ。キリルを突き放し酒をあおる。
グデングデンに酔ったサーシャは帰宅すると間違ってセルゲイのベッドに転がり込み、一晩中、吐く。床で寝るセルゲイ。
翌朝、「少しは友達(オーリャ)をに見習え」とサーシャを叱るセルゲイ。「どうしてそんなことを言うの」というサーシャに「これは家族会議だ。」と答えるセルゲイ。
夜、仲良く酒を飲む三人。サーシャは「真実か挑戦か」というゲームをはじめる。負けた者が罰ゲームで(?)質問に正直に答えるという主旨のゲーム。そこでサーシャは軽くセルゲイをからかい、オーリャのお母さん・カーチャとのなれそめを聞く。
セルゲイとカーチャは一晩限りの行きずりの相手だった。他の女にふられたセルゲイが腹いせにビーチでたまたま抱いたのがカーチャだった。顔さえロクに覚えていない、覚えてるのはケツだけだ、と言い放つセルゲイを「最低。」となじるオーリャ。自分は、愛のない一晩限りのセックスで出来た子だったという事実にショックを受けた。
「どうしてあんなことを聞いたのよ」とサーシャを責めるオーリャ。すぐにモスクワに帰ると言い出すが、チケットの予定を変更するのは難しい。
翌朝「昨夜は酔っぱらっていた」と謝るセルゲイだが、オーリャは許さない。大人が謝る姿にサーシャは応え、笑顔を見せる。
夜、仲間の男が迎えに来てどこかにでかけるセルゲイのクルマにサーシャが潜り込む。セルゲイは、貸し部屋をしているが実際は無職のようなもので、仲間と密漁をしていた。仕方なくサーシャも連れて夜の海へ行く。途中、警察が来るがサーシャの機転で事なきを得るなど、サーシャはセルゲイの仕事に貢献し、密漁仲間とも打ち解ける。
夜中に目を覚ましたオーリャは、セルゲイとサーシャがいないことを不審に思いキリルを呼び出す。しかし、二人の行方がまったく思いつかないこともあり、ヤケクソ気味にクラブへ行き、ガンガンお酒を飲んで裸になって踊る。サーシャのことが好きなキリルだが、オーリャの勢いに押され、店の陰でオーリャとヤる。
翌朝、戻って来たサルゲイとサーシャ。お互いに優しい笑顔を見せる。しかし、オーリャがいない。
そこに、まだ酔っぱらったまま砂浜で寝ていたオーリャからセルゲイに電話がかかってくる。オーリャは自分が本当の娘であることを告げる。
真実を知ったセルゲイは、すぐにサーシャを家から叩き出す。「二度と二人の顔は見たくない」と。
道端で途方に暮れるサーシャ。キリルの車が来る。オーリャが降りてくる。キリルは「ウチに来い。」と提案するが、サーシャは拒否してさっさと歩いていく。
オーリャはその足でセルゲイの家にいくと、本人の目の前で、これ以上ないくらいの侮辱の言葉をぶつける。
朝、追い出したはずのサーシャが納屋で寝ているのを発見したセルゲイは再び追い出す。
夜、仕方なく、夜の公園で騒いでいるキリルの不良仲間たちと一緒にいるサーシャとオーリャ。サーシャはナンパしてきた男をわざとセルゲイの家の中まで連れて行き、セルゲイが気づくように大声を出して男とエッチなことを始める。
気づいたセルゲイは、すぐに走ってきて男を殴り家から叩き出す。サーシャは、男に逆襲され殴られているセルゲイを守り「パパを殴らないで。」と男を追い出す。
「何をバカなことをしてるんだ。」と怒るセルゲイに「パパがいないからこうなったの、パパのせい。」と言う。「俺はお前のパパじゃない」と言うセルゲイに抱きつき「愛してる」とキスをするサーシャ。セルゲイはとっさにサーシャを突き飛ばす。
そこに同宿の中年女がやってきて「親子ケンカはダメ」と空気を知らず仲裁する。
中年女に見えない位置で「隣に座れ」と指示を出すセルゲイ。
隣に座るサーシャ。
二人の沈黙の間にあるのは、痛みをわかりあった者同志の絆か、それとも愛情か。
モスクワへ帰る日。バス停で待つサーシャとオーリャ。
オーリャは勝ち誇ったように「キリルと寝たよ」と告げる。サーシャは「それはよかったね。」と言うと、後ろを向き、オーリャに見えない位置で静かに笑顔を見せる。
高台から、セルゲイの家を眺めているサーシャ。
ほぼ無表情のサーシャのアップで…エンドロール。
つまりこういう映画(語りポイント)
一見「少女のひと夏の経験」的な青春映画のテイスト。ロシアの田舎町、海辺の町の風景を見ているだけでも心地よい。
そんな風景の中、孤独な人間のきっつい部分が割とヘビーに描写されていく。そのあたり、僕は好みですが、好みじゃない人には辛いかも。
ストーリー自体はシンプルではあるけど、登場人物の心の動きに関しては、すべてを説明せずに観客に委ねる部分が多く、ややわかりにくい部分もある。ただ、説明の省き方の頃合いがちょうど良いのか、観る側の洞察力や想像力を心地良く刺激する程度にとどめてくれている印象。「どこを見せるか(説明するか)」「どこを見せないか(説明しないか)」が脚本的センスになるのですが、その意味でセンスが高い映画だと思います。
それでも「あの行動は理解できない」「感情移入できない」と感じる部分があるなら、主要三人の人格・トラウマの有無を掘り下げてみれば辻褄があってくるはず。
セルゲイは41歳独身。父親とはいえオーリャは行きずりで出来た子。実際には、結婚生活どころか女と暮らしたことすらない。過去の女絡みの経験、裏切られたり罵倒された経験がトラウマになっていて、女というものに警戒心を持っているようにも見える。
娘のオーリャに侮辱されまくりながら静かに耐える姿からは、結局、女という生き物にはかなわない、理解できないという敗北感さえあるのかも知れない。二人に騙されていたことを知って「またか」というような複雑な表情を見せ、その後、激高しますが、普通に見たら、あそこまで怒らなくてもいいんじゃないの?と思うのだけど、コンプレックスとトラウマを刺激されたがために生まれた怒りの感情だと考えると納得できる。
人間は、とことん哀しい部分を刺激されると、怒りに転嫁させるしか術がなくなるのかも知れない。
オーリャ
オーリャは、母子家庭のままで大学も演劇学校も落ちたサーシャに比べ、俗福な義理の父もいる、名門大学にも受かっている、属性としては自分のほうが絶対に恵まれてるはずなのに、顔がかわいく社交的、性格も解放的で性にも奔放なサーシャのほうが必ず周囲に気に入られる。自分が信じて実行してきたもの(礼儀、良い成績)の価値観と、周囲からの自分の扱われ方の間で整合性がとれなくなっている。
そこから生まれるものはコンプレックスであり、それは「怒り」や「他者否定」「攻撃」へと転化する。セルゲイと同じなのだけど、こちらは若くて経験がない分、一段と性質が悪い。
自分の理想の父親像と違うために受け入れようとしない「他人を許せない」オーリャ。かたや、他人を許し、他人を愛し、成長していくサーシャの姿が描かれていく…。
サーシャ
嘘からはじまった疑似親子の関係だが、ややファザコン気味に父親への憧憬が強いため、セルゲイへの想いは半ば恋愛感情にまで発展する。他者の気持ちをまったく受け入れないオーリャと違って、他人の気持ちに敏感で、性格的にはものすごくバランスが良い。さすが主役。
物語は、セルゲイやオーリャを反面教師としながら、サーシャの成長と、未来の幸せを示唆して終わる。
以下、いくつか小ネタ。
三人で楽しく飲んでいる場面、17歳のサーシャは「80年代、レッド・ツェッペリンのボンゾが…」などと、とても世代違いな話題を語りだす。意識してか無意識か、そんな大人受けする会話を持ち出すあたりに社交性のスキルの高さを表現している。
二人がケンカをしたときに「あなたは脳みそがない」「あんたとは違う」等と、大人であれば普通「そこまで言ってはいけない」レベルの言葉を平気でぶつけあうのだけど、あれは、相手を殴ったらこれくらい痛い…という学習をしていないために、若さゆえにやってしまう言葉の暴力ですよね。懐かしくも痛々しい。
ただ、ひどい言葉を受けたほうも、実は大した傷なく受け流していく…蘇生力の高さも若さの特権。若者同士なら、周りが余計な心配をすることもないのですね。
しかし、それと同じテンションでこれ以上ないくらいの侮辱の言葉をぶつけられた41歳独身中年はたまったものではない。撃ち返すだけの蘇生力がもうないんだから。
セルゲイに真実を話した後、サーシャを迎えに来た若者・キリルは、サーシャのことを「スイ―ティ」と呼ぶ。造語かと聞いたら「スイートとプリティを合わせたんだ」と言ってブーイングを浴びます。その後、オーリャに名前を呼ばれて「気安く名前を呼ぶな」と怒るキリル。
あれは「心がまだ不安定な若者にとって、自分が何者か?という問いが、一番、触れてほしくない話題なのかも。」と。だから、ニックネームで呼び合い「何者でもない自分」でいたいというモラトリアム願望を表わしているのか?などと深読み。
細かいセリフのやりとりや表情の中からも、なにかしらのメタファーや隠しメッセージを受け取れるって、それが意図的か副産物かはさておき、真摯に映画を作ってるな~と感じて好感が持てるのです。