基本データ・おススメ度
『メッセージ・イン・ア・ボトル』
原題:Message in a Bottle
1999年 アメリカ
監督:ルイス・マンドーキ
出演:ケビン・コスナー、ロビン・ライト・ペン、ポール・ニューマン
おススメ度★☆☆☆☆(1/5)
僕がどんなに「ひどい」と感じる映画でも「感動した」「良かった」という人は必ずいるもので、他人の感性まで否定してはいけないと思っています。…と前置きしたうえで、けっこうボロクソに書いちゃいました。ごめんなさい。評価としては、ポール・ニューマンの存在感に★1。レビューでは、脚本上「ここが致命傷」と思われる部分を3つだけ挙げます。
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◆目次
あらすじ(ネタバレなし)
※今回に限り、あらすじ内のところどころに個人的見解(青字)を含みます。ご了承ください、
新聞社に勤めるテリーサ(ロビン・ライト・ペン)はシングル・マザー。夫に浮気され離婚、現在は息子と二人暮らし。ある日、ジョギング中に砂の中からメッセージ入りのボトルをみつける。手紙の内容は「キャサリン好きだ」だった。
どうやらキャサリンさんはすでにお亡くなりのようで、手紙の内容も特に感銘を受けるような内容ではないのだが、テリーサは思い切り感動する。
手紙を職場に持って行き、あろうことか上司や同僚に見せると、同僚の女性たちもどういうわけか感動する。上司のチャーリーは個人情報保護などおかまいなく、他人の書いた手紙を無断で新聞に掲載する。読者も、あまり何も考えずに感動したようで、他の場所でみつけたという2通目の手紙を送ってくる人も出た。
テリーサは、自分に相談なく手紙を掲載した上司に怒るが、そもそも私的な手紙を会社に提供したのはテリーサだった。
テリーサは、ビンの形状、便せんを購入した人のリスト、使われたタイプライターなどを調べていき、手紙を書いた人物を特定します。怖いです。手紙の主は、海辺の町に住むギャレット(ケビン・コスナー)だった。
テリーサはギャレットを取材するために、海辺の町へ向かう。
==以下ネタバレ==
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ネタバレあらすじ
海辺の町につき、ギャレットの家をつきとめたテリーサは、まずギャレットの父であるドッジ(ポール・ニューマン)と出くわし、その後、海岸でギャレットに話しかける。
ボトルの手紙のことも、取材で来たことも言いだせないままギャレットに接近したテリーサ、お互い、ひさしぶりに話す異性だったからか、急激に惹かれ合う。結局、誰でも良かったんじゃないの?と思えるくらい、すぐに惹かれ合う。
夜、忘れ物を届けにテリーサの宿泊するホテルの部屋に行くギャレット。テリーサも滞在中、頻繁にギャレットの家を訪ねるなど、親交を深める。
テリーサは、前の旦那が他の女と歩いている姿をみて愕然とし、90分も車の運転席で固まっていたと云うエピソードを話す。離婚の原因は旦那の浮気だったことがわかるが、エピソードが浅すぎる。
ギャレットの元妻キャサリンが、病気で亡くなったことを知るテリーサ。ギャレットと父のドッジは、その時にテリーサ側の家族と揉めて今でもケンカしている。
ギャレットは、製作中の船をテリーサに見せる。もう2年も手をつけていないが、この船で海へ出るのが夢だと語る。「素敵な夢。完成するといいな。」…この時点で、後半にはこの船が完成するんだな、そこ感動ポイントなんだろうな、ということを観客の全員が思う。そしてその通りになる。
お互いに思い切り好意を示し、キスをしまくって、テリーサは一旦、シカゴに戻る。
編集者に戻ったテリーサは、上司に「どうだった?」と聞かれ「予想通り。特に変わったことは何もない。」と、とぼける。テリーサに気がある上司にギャレットとキスしたなんて報告したら、やきもちからのパワハラで会社内での立場が悪くなるかも知れない。言わないでおこうとの計算がアリアリ。数日後、ギャレットから電話がかかってくる。「会いたい。」「私も。」あーそうかい。
今度はギャレットがシカゴに来る。テリーサの家でやっちゃった後、ギャレットはボトルと手紙をみつける。「言い出せなかったの」と言い訳するテリーサを怒鳴りつけ、怒って帰ってしまう。その際、手紙がもう1通あったことがわかる。その手紙は、キャサリンがまだ生きている時に書いて、海に流した手紙だった。内容は「ギャレット好き」だった。
海辺の町に戻ったギャレットは、キャサリンの家族たちと和解し、彼らの手助けもあって船を完成させる。シカゴのテリーサに「船が完成した。進水式はいついつだ。来てくれ。」と書いたポラロイド写真を送る。
メッセージを受け取ったテリーサはまた海辺の町までやってくるが、進水式で、船の名前が「キャサリン」であること、ギャレットがまだキャサリンをひきずっていることを確信して、ギャレットには会わずにシカゴに帰ってしまう。その様子をみていた父のドッジ。
気持ちを切り替えたテレーサは、仕事を頑張り社内で出世する。
ギャレットは、ドッジに「なんとしてでも(テリーサを)口説き落とせ」「好きなら追いかけろ」「気持ちを切り替えろ」と進言する。
ある嵐の日、ギャレットは「嵐が来るぞ」というドッジの忠告を無視して「気持ちを決めたんだ」というと、何を思ったのか、嵐が来る沖へ向かって船を出す。
案の定、嵐が来る。ギャレットは沖で救助サインをみる。どこかの親子連れ3人の船が転覆し、父・母・娘が海に放り出されていた。ギャレットはまず父と娘を救出して自分の船に上げると、まだ海中でおぼれている母親を助けるべく海に飛び込んだ。ていうか、父親!お前が助けにいけや。
仕事中のテリーサに緊急の電話。ドッジから。「息子が死んだ。親子を助けようとして…。」と知らされ号泣する。
ギャレットが、キャサリンに向けて書いた手紙が発見される。手紙の内容は「君と同じくらい好きな人ができた。前を向いて生きていくことを彼女が教えてくれた。その人と暮らして行くよ。」ギャレットは、船で沖に出てこの手紙を海に投げたら、戻ってきてテリーサの元へ行くつもりだったことがわかる。
それを聞いてさらに泣くテリーサだが、きっとテリーサは、そのうち会社の上司とくっついて、適当にうまくやっていくのであろう。めでたし。
つまりこういう映画(語りポイント)
レビューって個人的感想なので、基本はなんでもアリだと思います。ただ、作品へのダメ出しはいいとしても、それを「良い」「悪い」と言う他人の感性まで否定してはいけないと思っています。
僕個人がどんなに「ひどい」と感じる映画でも、「感動した」「良かった」という人は必ずいるもので、感性や価値観は本当に人それぞれ。ですので、原則、あまりボロクソなことは書かないようにしていますが…。と、わざわざ書くくらい、本当はボロクソ言いたいということですが…。
ここでは、脚本上「ここが致命傷」と思われる部分を3つだけ挙げます。「こうしたほうがいいんじゃない?」という改訂案つきで。
◆致命傷1)動機が薄すぎる。
テリーサがメッセージ・ボトルをみつけて、そこに入っていた手紙に興味を持つのはわかります。ただ、肝心の手紙の内容が「すべての女性が感動した!(と劇中で言っている)」ほどの内容でしょうか?「亡くなった妻へ。今でも愛している。ありがとう。」的な、なんてことない内容だったと思いますが、普通に考えたら、自主映画で使った小道具が捨てられてるのかな?程度にしか思わないでしょう。
まずそこで、登場人物たちが感動している姿が嘘っぽい。
設定的に「かなり昔に海に放たれたボトル」であれば「時を経て流れ着いた」的な興味が付加されるのですが、ボトルは最近の物だと。
とても、書いた人間をFBI並みの捜査力で捜し出すほどの、強い動機になるとは思えないのです。
▼改訂案
「全員が感動した」ではなく、ごく一部の人間(編集者の上司)が強い興味を持った。社員はシラケていたが、テリーサは仕事として指示されたので、仕方なしにいろいろ調べはじめる。そうこうしているうちに興味が芽生え…なんてほうがリアルです。
◆致命傷2) 取材であることを隠してギャレットとつきあった。
この設定が、脚本や映画を嘘っぽくしちゃった一番の元凶です。
テリーサは取材するためにギャレットに会いに行ったのです。仕事です。最初に目的を告げないでいるのは絶対に変です。
逆に、何の理由もなく、いきなり家まで訪ねてくる女性のほうがよっぽど怖いです。
確かに、妻宛ての手紙の入ったボトルを誰かが拾ってしまったことは、ギャレットにとっては嫌なことかも知れません。だから言えなかった…が、劇中で語られる言い訳ですが、結局、手紙のことは一切話さないまま、キスだけして「楽しかった。ありがとう」とシカゴに帰っていきます。あんた、なにをしに来たの?
テレーサが最初から「もしイケメンだったら、取材にかこつけて仲良くなる」を目的にしていたとしか考えられなくなる。
一体、何をどうやって記事にするつもりだったんだ?「会社の経費で婚活する方法」みたいな記事?
▼改訂案
最初に普通に「取材で来ました」と言えばいい。
「ごめんなさい、拾ってしまいました。ただこれを書いた人に興味があって来ました。取材させてください。」と普通にいえば良くて、もしかしたら、その時点で門前払いを食らうかも知れない。でも、例えそうなっても取材としては成立する。「手紙の主に会いに行ったら門前払いされた。しかし、さらに粘り強く交渉した結果、ついにその心境を語ってくれた」なんて流れは、記事を演出する編集者としても、脚本上も、むしろ好都合な展開。
粘り強く交渉をした末にやっと話ができたことで、そこに信頼関係が生まれて、やがて恋が芽生えて…なら、自然なラブ・ストーリーになります。
さらに、上で書いたように「テレーサは手紙にはまったく感動しなかったし興味もなかったけど、仕事で嫌々行かされて、ギャレットに会ったことで人生が変わった。」なんて構図のほうが、はるかにリアルです。
◆致命傷3)ギャレットが死んでしまった理由がない。
ギャレットが嵐の日に沖に出た理由がさっぱりわかりません。テリーサと暮らして行く決意をしたから、決意表明ということですが、嵐が来るのに沖に出るなんて、海の怖さを熟知している大人のすることではない。
また、海に落ちた女性を助けようとしてギャレットは命を落としますが、命の危険をおかしてまで溺れる女性を助けに行く理由もありません。
▼改訂案
元妻のキャサリンは病気で死にました。どうして「海で溺れて死んだ」にしなかったのでしょう?そうすれば、最後にギャレットが身の危険を承知のうえで女性を助けに行った理由になります。「あの時、溺れる妻を助けられなかった」ことを長年後悔していた男が、他人とはいえ、溺れる女性を見て「今度こそ、助けに行く。」と思ったなら、誰もが納得します。
◆おまけ
「主人公(あるいはヒロイン)を、可哀想な事情で殺せば、観客は泣く」と考えているとしたら、あまりにも浅はかです。僕はバッドエンドが大好きですが、それは、その先にいちるの希望が描いてある場合、あるいは、哀しさの理由がしっかりある場合。
何の理由も希望もないバッドエンドじゃ、ただ「うまくいかなかったね」というだけのお話になってしまう。
あらすじ内にもふざけて書きましたが、この映画の場合「テリーサは、きっとすぐにギャレットの事なんて忘れて、なんなら上司とくっついて、それなりに生きていくんだろうな。」という、夢も希望もない「その後」しか想い浮かばないです。
すばらしい映画を絶賛するのも映画の楽しみ方なら、ひどい映画をケチョンケチョンにけなすのも、それもまたひとつの楽しみ方ということで…。