【映画で語ろう】カムシネマ★3分で語れるようになるポイント【ネタバレあらすじ】

映画を観たなら語りたい。映画の紹介から、ネタバレあらすじ、著者の独断と偏見による「語りポイント」まで。

3分で映画『あるメイドの密かな欲望(小間使いの日記)』を語れるようになるネタバレあらすじ

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基本データ・おススメ度

『あるメイドの密かな欲望(小間使いの日記)』
原題:Journal d'une femme de chambre
2015年 フランス・ベルギー
原作:オクターヴ・ミルボー
監督:ブノワ・ジャコー
出演:レア・セドゥー、ヴァンサン・ランドン、クロティルド・モレ、エルヴェ・ピエール、ヴァンサン・ラコスト
 おススメ度★★☆☆☆(2/5)
 邦題がふたつある。最初は原作通りの「小間使いの日記」。WOWOW放送時に、この文芸作をエロい映画だと意図的に誤解させるために「あるメイドの密かな欲望」となったみたいです。原作は未読ですが、原作者のミルボーさんは「ブルジョワを精神的醜悪・知的低俗そして情愛と官能の荒廃の権化とした。(Wikipediaより抜粋)」とのこと。…えっとつまり「ブルジョアめっちゃ嫌い!」みたいです。19世紀の豪邸に仕える小間使いの女性を通じて、持たざる者の内なる反逆心を描いた文芸作。レア・セドゥーの不機嫌顔が相変わらず良い。

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◆目次

あらすじ(ネタバレなし)

 19世紀。お屋敷に仕える小間使いとして多くの豪邸を渡り歩いてきたセレスティーヌ(レア・セドゥー)は、エージェントを通じて、ランレール家にやってきた。

 早速、セクハラをかましてきたお屋敷の主人に「私は他の女とは違う。奥様に言うよ。」と突っぱねるセレスティーヌ。奥様は性格が悪く、めっちゃ意地悪。理不尽な命令に従いながらも「ふざけんなよ、ババァ」と呟くセレスティーヌ。

 セレスティーヌは、パリで多くの家に仕えてきたが、判で押したように屋敷の主人はカラダを求めてくるし、女主人は決まって性悪。大人しく従うことの嫌いなセレスティーヌは、時には揉め事を起こしながらも、社交的な性格を活かしながら生きてきた。
 
 ある日、それまでは取っ付きにくい印象だった同じ小間使いのジョセフ(ヴァンサン・ランドン)に、ある計画を打ち明けられる。半信半疑だったセレスティーヌだったが、徐々に、ジョセフの計画に魅かれていく。もしかしたらこの地獄の日々から脱け出せるかも知れないと云う、大いなる希望を膨らませながら。

==以下ネタバレ==

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ネタバレあらすじ

 ジョセフは、献身的に働くと評判の良い下僕だったが、15年もマジメに仕えてきて貯金もそこそこあり、あと半年働いたら港町へいってバーを経営したいとセレスティーヌに打ち明ける。但し、そこには気の良い女が必要だと。つまり「一緒に行い」との誘い。

 「考えさせて」と返事を保留するセレスティーヌだったが、自由への渇望心は日に日に大きくなっていき、それはジョセフへの恋心にまで昇華する。

 ある夜、ジョセフとセレスティーヌは屋敷内の金目の物をどんどん袋に詰めた。翌朝「泥棒が入った」と嘘をつくジョセフ。警察の捜査も行われたがジョセフたちが疑われることはないまま捜査は打ち切りとなった。

 ジョセフは「毎晩11時に外を見ろ。アカリが見えたら俺のところへ来い」と言い残し、主人たちに惜しまれながら屋敷を去った。

 セレスティーヌは、ジョセフのいなくなった屋敷で、女主人にも可愛がられるようになりメイドとして重宝されていた、が、ある夜、外にアカリをみつけたセレスティーヌは「故郷へ帰る」と言って、ジョセフの後を追うように屋敷を去っていった。

つまりこういう映画(語りポイント)

 語弊を恐れずに書くと、これはもはや奴隷制の映画です。

 もちろん、19世紀の小間使いはれっきとした職業で、いわゆる奴隷制とはまったく違うもの。加えて、この映画は「女性である」ゆえの哀しみにも焦点が当てられている文芸作であり、「ルーツ」などの黒人奴隷を扱った映画とは異質ではある。でも…、
 
 「白人であること」「おカネを持っていること」等、社会的に優位な者が持たざる者を支配し服従させる構図は同じだし、そこに人権がない(あるけどない)のも同じ。

 小間使い=奴隷などと言いたいのではなく、映画のカテゴリーとして、奴隷制を描いた映画と同様に「どうしようもない宿命や運命と戦いながら、必死に抜け出そうとする人間の物語」だということ。

 人間が人間を使う、支配する。現代でも変わっていない当たり前な構図。

 セレスティーヌは、そんな世の中の仕組みなんて嫌というほど知りながら、でも「おカネを持ってる人間に好き勝手に使われることに心底ヘキエキしている」女性。そして、ただ現状を嘆くのではなく、現状を受け入れながらも、決して主体的ではないにしろ、その仕組みの中で自由になる方法があるならば、この地獄から抜け出す方法があるならば、もはや手段を選ばないだけの野心と覚悟を持ち合わせている。
 そこが、そんな彼女の覚悟が、暗くて絶望的にも見えるこの映画に希望を注いでいる。

 セレスティーヌの役柄は、常に不機嫌そうで何を考えているか読み取りにくい顔をしている、レア・セドゥーにドンピシャ。

 希望とは相対的なもの。

 仮に、太陽の光が入らない部屋に閉じ込めらたら、いつしか、陽光を浴びることはまるで夢のような出来事だと感じるだろう。ジョセフの計画にある「港町で経営するバーのカウンターに立つ自分」は、セレスティーヌにとって夢のような絵に思えたはずだ。

 人を好きになるということ。

 夢を膨らませたセレスティーヌは、たちまちジョセフに恋をした。「あなたが好き」と、自分から股間に手をやるほどに。

 すいません、少し、映画とは直接関係ない話にそれますが…。ここで直感的に感じたことは「人は人そのものを好きになるのではなく状況に惚れるのだ。」ということ。恋に恋をする。吊り橋効果。結婚相談所でお見合いをした人は、相手を好きになるのではなく「これで私も結婚できるかも知れない♪」という状況を好きになる。相手がお医者さんだと知った瞬間に、贅沢な暮らしができるかも知れない希望を好きになる。

 恋愛の初期衝動に限っていうなら、人が純粋に人を好きになることは実はそうそうない。それは後からついてくるもの。

 セレスティーヌも、地獄から抜け出せるかも知れない希望があったから、アッという間にジョセフに惚れて、後は彼の言いなりになった。

 支配から逃げるために、結局はなにかに支配される道を選ぶというのも皮肉なものではある。

 彼女は、決定的に幸せを掴んだわけではない。ハッピーエンドかどうかでもなく、そもそもなにひとつエンドしてないまま映画は終わる。これからの彼女の行く道に、数々の困難が待ち受けるであろうことも想像がつく。
 
 でもそれが映画。

 その後、彼女はどんな人生を歩んだのだろう?答えのない想いを巡らせるのが映画の味わい方なのだから、それでいい。

 それにしてもレア・セドゥーが逸材すぎる。

 

▼同じくレア・セドゥー

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