基本データ・おススメ度
『仮面/ペルソナ』
原題:persona
1966年 スウェーデン
監督:イングマール・ペルイマン
出演:ビビ・アンデショーン、リブ・ウルマン
おススメ度★★★★★(5/5)
その後、多くの映画に影響を与えたプロット。難解と言われていますが、ユング心理学のペルソナをテーマにしているのは明らかなうえに、決して説明排除でもなく思い切り説明もしてくれてるので決して難解ではない。もはや使い古されてますが。
ひたすら喋り続けるビビ・アンデショーンと見事に一言も発しないリブ・ウルマン。二人の女優さんの対比も素晴らしい。世間一般的な知名度は知りませんが、コアな映画ファンにとっては不朽の名作。
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◆目次
あらすじ(ネタバレなし)
女優エリサベートは、舞台の本番中、突然、失語症になりセリフが言えなくなった。検査の結果、精神的にも肉体的にも問題はなかったが、病院で療養していた。
アルマは25歳の新人看護士。エリサベートの担当となる。アルマは農場の娘、母も看護師。地味なアルマは、派手な世界にいるエリサベートの担当は「荷が重い」と婦長に告げるが、あなたにやってほしいと言われる。
ベッドのエリサベートは一言も喋らない。アルマが気を紛らわそうとテレビを見せるが、ブラウン管の中の女優やタレントを見て無表情のまま、画面は暗転していく。
アルマは今の平凡な日々に「これでよかったの、私は幸せなの」と自分に言い聞かせている。
エリサベートに手紙が届く。夫から。同封されていた息子の写真を破る。
婦長がエリサベートに告げる。「本当の自分でいたいと思っているのね。すべてが演技、自意識にとらわれている 沈黙することで現実を遮ろうとしている。でもダメよ、安心できるのは演技をしているときだけなのだから、気が済むまで芝居を続けなさい。」
エリーサベットとアルマは、二人で海辺の別荘にいくことになった。
==以下ネタバレ==
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ネタバレあらすじ
二人での別荘生活は快適だった。相変わらず一言も喋らないエリサベートだが、喋り続けるアルマの話を聞きながら時折笑顔を見せる。
アルマの「自分語り」が続く。
アルマには五年つきあった妻子持ちの彼氏がいた。今は分かれたが、あれは嘘の自分だったと言う。でも苦しみは本物だったと。
七人兄弟の末っ子で女は自分だけだったアルマにとって、彼氏が自分の話を聞いてくれるだけで満たされていた。
カテリーナという友達と海辺で裸で寝たいた時の話。気が付くと少し離れた場所に少年が二人いて、こっちを見ている。悪戯心でアルマとカテリーナは少年に裸を見せてあげていた。
やがて少年が寄って来た。カテリーナは「こっちへ来なさい」と誘うと、乳房を吸わせ挿入させた。
アルマも興奮してきて、少年を自分の上に乗せ、何度も絶頂に達した。その後、妊娠、中絶。
あの時の私はなんだったのか?自分の中にふたつの人格があるのかしら?と泣く。
エリサベートが先生に書いた手紙を投函しにいくアルマ。手紙は封がされていなかったので、アルマは好奇心から手紙の中身を読むが、そこには「こんな静かな生活が夢だった。」という別荘生活の快適さと共に「アルマはとても献身的にやってくれている。でも面白いの。ずっと自分のことを話すの。過去の堕胎や少年との乱交の話までする。時々泣く。観察していると面白い。」と、自分を見下しているような内容にショックを受ける。
翌朝、あきらかに不機嫌になったアルマは、割れたガラスの破片をわざと庭におく。破片を踏んで足を怪我するエリサベート。
海辺、戯曲を読みだすエリサベートを見て「回復は近いわね。」「そろそろ街に帰りたい」と言うアルマ。そして「お願いがあるの。簡単なことよ。なんでもいいから話して。少しでいいから声を聞かせて。」「私ばかりが喋ってるなんて変よ。」とキレる。
そして「芸術家の心は温かいと信じていた。でも間違いだった。私を利用して用済みになったら捨てるのね。私の言葉も自分のため利用したのね。そして陰で笑ってたたのね。先生への手紙を読んだのよ。私のことをバカにしてたのね。」となじる。
二人は小競り合いとなり、エリサベートはアルマを張り手で殴る。エキサイトしたアルマは煮えたぎった熱湯の鍋を手にとるが、思いとどまる。エリサベートの怖がった顔を見たからだ。
さすがに怒ったらしきエリサベートに、今度は許しを請う。私が悪かった、許して、と足早に歩くエリサベートにすがるが、エリサベートはさっさと行ってしまい、アルマはその場に泣き崩れる。
エリサベートが写真を眺めている。どこかの国、どこかの子供が、軍に銃をつきつけられている写真。
寝ているエリサベートの枕元、カラダをさすりながらアルマの独白。「貴女が寝ている時の、無防備で醜い寝顔を見ると安心する。首に傷があるわね、普段は化粧で隠すの?」
別荘にエリサベートの夫が訪ねてくる。
夫は、アルマを見て「エリサベート」と呼ぶ。「私はエリサベートじゃない。」と言うアルマだったが、夫はかまわず話を続ける。エリサベートがアルマの後ろに現れ、アルマの手をとり夫の頬に誘う。夫と抱き合いキスをするアルマ。完全に夫婦の姿。最後に「なにもかも嘘と芝居よ!」と言うアルマに、エリサベートがハッとする。
再び二人になったアルマとエリサベート。アルマは「なぜ子供の写真を破ったのか。子供の話を聞かせて。」と言うが、エリサベートは首を横にふる。「じゃ私から言ってあげる。」と、エリサベートのエピソードをアルマが語る。
『妊娠した。子供は欲しくなった。でも私は女優、幸せな妊婦を演じた。何度か堕胎したが失敗、死産してほしいと願った。難産で何日も苦しめられてやっと産まれた。産まれた子供を見て思った、このまま死んでくれないかと。息子を憎んだ。子供を親族に預けて舞台に復帰した。子供が会いたがる。無下にはできないから会い、なんとか愛情を見せいようとしたが無理だった。どうしても自分の子供を愛せない。なぜ私の邪魔をするのかと思った。」
※このシーンは二度繰り返される。一度目はアルマの語り。二度目はエリサベートの語り。最後の二人の顔が半々に合成され、ひとりの女性の顔となる。
アルマは「違う!私は貴女じゃない、看護師のアルマよ。子供も欲しい。」と否定する。
看護士の制服を着たアルマが、エリサベートに向かって激しい口調で言う。「多くを学んだわ。私は負けない、貴女のようにはならない。取り込まれないわ。言葉は無力よ、言うだけならなんとでも言える。もう手遅れよ、貴女は何もしなかった。私は貴女とは違う。他人を見捨てず、苦しむ人に忠告してあげる。貴女をなんと呼べばいいの?私?私たち?」
何度もエリサベートを殴るアルマ。
朝、目を覚ますアルマ。リビングを覗くと、エリサベートが身支度をしている。トランクに荷物を詰めている。
ベッドを整え、椅子を片付け、別荘を出る準備をしているアルマ。外出着に着替え、トランク(さきほどエリサベートが荷物を詰めていたトランク)を持って出かけるアルマ。
バス停。一人でバスに乗り、町に戻っていくアルマ。
つまりこういう映画(語りポイント)
本当はひとりの人間?
ひとりの人間の心の中を描いた映画?
だとすれば、どちらが実体なのか?
それとも、二人とも存在するのか?
明確な答えを語らず、曖昧に観念的に描いたことで、難解と言われ、いくつかの解釈が乱れ飛ぶ問題作となりました。
といってもこの映画、決して説明を排除してませんし、さほど難解でもないです。むしろ、ところどころで思い切り説明してくれてます。そもそも題名からして、心理学者ユングの「ペルソナ」が元ネタであることが明白なので、二人の女性を、人間の「外的側面」と「内的側面」に例えていると云う解釈で間違いない。どっちがどっちではなく、双方にとって。
冒頭などで出てくる「蜘蛛」「焼身自殺する僧侶」などのインサートカットは意味深ですが、いかにも意味深に見せようとしている意図を感じて個人的にはあまり好きではないです。だから言及しません。
ユングのペルソナ・概要↓
ペルソナ(英: persona)とは、カール・グスタフ・ユングの概念。ペルソナという言葉は、元来、古典劇において役者が用いた仮面のことであるが、ユングは人間の外的側面をペルソナと呼んだ。ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。逆に内界に対する側面は男性的側面をアニマ、女性的側面をアニムスと名付けた。(wikipediaより)
生きるために仮面を被る。被り続ける。いずれ仮面を外せなくなり、本当の自分がわからなくなる。…誰しも、なにかしら思い当たるフシがあると思います。逆に、仮面を被らないことで自身や他者を傷つけてしまう場合もあると云うのも妙に納得できます。
映画の設定について。冒頭に書いたいくつかの疑問(アルマとエリサベート、どちらが実体?二人とも実体?云々)ですが、ミもフタもない結論を先に書いてしまうと…。
「(そんなこと)どっちでもいい」が答えです。
この映画にとって「どちらが…」などと答えを出すことに、さほどの意味はない。だから、どちらでもいい。
…ただ、そう言ってしまうと本当にミもフタもないので、以下、僕の解釈を書きます。
Q)どちらが本当に存在するの?
A)両方、存在すると思います。
僕は、劇中の二人の葛藤は真実であると、ぜひ思いたいです。エリサベートの夫絡みのシーンや、アルマがエリサベートの独白を先に話すところなど、リアルに考えたらおかしい部分も出てきますが、そこは「一部、妄想」と考えれば成立します。
現実と妄想が混在させた「ひとりの人間の内面を現す物語…のように見える物語」だと考えます。
アルマにはアルマの葛藤があり、エリサベートには彼女なりの悩みがある。当然、両者に外的側面と内的側面があるわけですが、それが、偶然か必然かはさておき、真逆の位置にガッチリ噛み合っていることで「まるでひとりの人間のように見える」のだと。
つまり「ふたりいるように見せている」のではなく、実は逆に「ひとりしかいないと思えるように見せている」。
あえてそう断言してみます。
でも、正解はやはり「どっちでもいい」でしょう。
多くの作品に影響を与えた同作。「ファイトクラブ」「ブラック・スワン」などがありますが、僕は、この映画のテイストをそのまま流用したような(設定は全然違いますが)フランソワ・オゾンの「スイミング・プール」がおススメ。