基本データ・おススメ度
『オートマタ』
原題:Automata
2014年 スペイン・ブルガリア
監督:ガベ・イバニェス
出演:アントニオ・バンデラス、ビアギッテ・ヨート・ソレンセン、メラニー・グリフィス(声)、ディラン・マクダーモット、ロバート・フォスター、ハビエル・バルデム(声)
おススメ度 ★★★☆☆(3/5)
一般的なSF映画としてはやや地味。ドンパチアクションを期待してはいけない。シンギュラリティに興味のある人や、終末世界の世界観が好きなら面白い。
<広告>
◆目次
あらすじ(ネタバレなし)
2030年代末、地球は砂漠化が進行し人口の99.7%が失われた。生存者は安全な都市網を再構築し、過酷な環境で人類の手助けを行う原始的なヒューマノイドロボット「オートマタ」を開発した。ある日、自己改造を行っているオートマタが発見され、保険調査員のジャック・ヴォーカンが調査に派遣される。
ロボットの知能が人間の知能を追い越す日…シンギュラリティを題材にした終末映画。
労働力として作られたロボットたちには2つの制御プロトコルがあった。
「人間に危害を加えないこと」「自他の修理や改造をしないこと」
第2プロトコルの目的は、人工知能を進化させず、人間の知能で理解可能な範囲にとどめるため。しかし人間の前に現れたのは、最も破られてはいけない、第2プロトコルの外れたロボットだった。
調査に乗り出した「ロボット専門の保険調査員」ジャック(アントニオ・バンデラス)は、自殺するロボットや、何者かに改造されているらしき娼婦ロボット、クリオに出会う。ロボットによる自己改造を止めなければ世界は大変なことになる。
しかし、調査中のジャックは謎の男たちに命を狙われる。助けたのはクリオで、ジャックが気がついたときには、ロボットたちに引きずられ、放射能で汚染された危険な砂漠の中、どこかに連れて行かれようとしていた。
==以下ネタバレ==
<広告>
ネタバレあらすじ
ジャックにはもうすぐ生まれる赤ん坊がいる。妻と生
まれてくる子供のことを考え、何とか街に帰ろうとするジャックだったが「ジャックを守る任務」を忠実に守るロボットたちは「街は危険」と主張し、帰してくれない。
ジャックを狙っていたのは、仲間であるはずの本部の人間たちであった。お偉いさんが真実を語る。その昔、試作品として作られたプロトタイプには制御がなかった。人間と友好的に会話を楽しみ、みるみる知能を高めていったプロトタイプは、8日目で人間を越え、9日目には会話が成立しなくなった。どちらかが会話を拒んだのではない。プロトタイプがしゃべる内容を人間がまったく理解できなくなったからだ。恐れた人間はブロトタイプを壊し、制御プロトコルを入れたロボットを作りはじめた、という話。
ジャックが砂漠の果てで出会ったのは、プロトタイプ(と同機種?)と思われるロボット。彼が、つまりロボットが、ロボットの改造を行っていた。
なにも知らないジャックは、人類のため、家族のためと奔走しながらも、上司たちに命を狙われていたのだ。真相を悟ったジャックは、クリオらロボットたちの力を借り、追手を撃退する。
ロボットはロボットの自分たちの未来へ向かって歩き始める。ジャックは家族と一緒に「どこか」に向かって去っていく。
つまりこんな映画(語りポイント)
近未来の終末世界のお話。
オートマタとは西洋の『からくり人形』の意味。ロボットたちにとっての本体は、脳に該当するバイオカーネルであり、人間に作られた人間形の姿態は、単なる入れ物に過ぎない。ロボットの造形とうまく合致した秀逸なタイトルです。
かといって、ロボットの反乱や人間との戦いではない。核で汚染された地球に「人間はもう住めない」「俺たちロボットなら住める」と悟ったロボットのボスが、第2ブロトコルを外した仲間を増やしつつ、自分たちの「新しい生命」を作り、人類から地球を引き継ごうとしているだけなのです。悪気はないんす。
映画のヒロイン?といえるのは、バンデラスを助ける娼婦ロボットのクリオ。彼女には胸もお尻もあって、どうやらセックスも可能らしい。人間の都合で人間の形に作られた彼女が、最後に仮面を外し、その場に置き去るカットは象徴的。
彼らにとっては「人間の形に生まれた悲哀」が絶対的にあるように見える。その証拠に、彼らが新しく作った「子供」はもはや人間体でもなく、虫のような形をしている。言葉も排除された。人間に見切りをつけたという意思表示か。
ロボットのボスが言う。「問題は存続ではない。今を生きることだ。私たちは生きたい。ただそれだけなんだ。」ジャックはもはや何も言い返せなくなる。
生まれたばかりのバンデラスの赤ん坊。彼らが作ったばかりの新しい生命。
2つの「種族」を対比させて映画は終わる。
シンギュラリティを題材にした映画となると、どうしても終末的な悲観的な内容になりがち。実際、2017年現在、人工知能は相当なレベルで実用化していて、茶化して軽い映画にもできないのかも知れない。肯定的な内容にしても物語になりにくいから、否定的な部分を強調したほうが問題提起っぽくて映画らしくなるから。どうしても、重く、暗い映画になってしまうのでしょうか。
ただ、映画にとって、リアル社会で論議されているシンギュラリティなんて本当はどうでもよくて、あくまで映画としては、比喩として、今に生きる自分たちがなにかを考えるキッカケに過ぎない。
そういう意味で「この題材からどんな明るい展望を見出していくのか」が、今後、このテの映画を作る時の課題になっていくでしょう。