基本データ・おススメ度
『シェルタリング・スカイ』
原題:The Shertering sky
1990年 イギリス
原作:ポール・ボウルズ
監督:ベルナルド・ベルトリッチ
出演:デブラ・ウィンガー、ジョン・マルコヴィッチ、ジル・ベネット、キャンベル・スコット
おススメ度★★★★★(5/5)
雄大な砂漠の強さ。ちっぽけな人間の弱さ。「引き返すには遠い場所」まで流されていく人間。苦手な人にはまったく苦手な映画でしょうが、誰かに「死ぬまでに一回は観て」と言える映画のひとつ。「ラストタンゴ・イン・パリ」と並ぶベルトリッチの名作。
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◆目次
あらすじ(ネタバレなし)
舞台は1947年。結婚10年の夫婦、キット(デブラ・ウィンガー)とポート(ジョン・マルコビッチ)は、若い男・タナーを連れてモロッコに入国した。
たくさんの荷物を抱えた三人は、冒頭「ツーリスト」と「トラベラー」の違いを話す。すぐに帰ることを考えるのがツーリスト(観光客)で、帰らないことあるのがトラベラー(旅行者)だと言い、キットは「タナーは観光客、私は半々ね。」と言う。
貧乏な現地の子供たちにチップを渡し荷物を運ばせ靴磨きをさせる三人。入国所では滞在期間を聞かれ「タナーは3週間。僕らは1~2年」と答え、職員に「この土地に1~2年も?」と驚かれる。
カフェの傍らにいる老人(原作者)の独り言。「キットとポートは定着した生活を送ったことがない。彼らは、時の存在を無視するという致命的な過ちを犯した。1年という区切りは無意味なものになった。」
ポートが昨夜の夢の話をしだすと、キットは不機嫌になった。ポートいわく「彼女はすべてがなにかの前兆だと考えてしまうんだ。」
グランドホテルという観光客用の高級ホテルに泊まる。口喧嘩のようにいいあう夫婦。キットは「タナーを信用できない。タナーをついてこさせたのは貴方。」と責めながら「でも、彼は若くてリッチでハンサム。好きよ」という。
「私たち、いつかはニューヨークに帰るのよ。」
「散歩にいかないか」と聞くポートに「船旅で疲れてるの」と断るキット。また「どうしてあいつを信用できない?」と聞くポートに「彼は、あたしより貴方のお荷物よ」と答える。
二人は、確実に倦怠期だった。
==以下ネタバレ==
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ネタバレあらすじ
ひとりで街に出たポートは、若いポン引きに声を掛けられ娼婦を紹介される。「いつまで歩くんだ」と言うほど遠くまで連れていかれる。テントの中、異国情緒あふれる雰囲気の中、娼婦は自分の乳房をポートの股間にあてがう。
ことの後、娼婦は会話しているフリをしながらポートの財布を盗む。しかしすぐに気づいたポートは、財布を取り返し逃げる。娼婦の合図で男たちが集団でポートを追いかける。
ひとりで目覚めるキット。そこにタナーが部屋に入ってくる。やがてポートも戻ってきて、どうしてタナーが部屋にいる?と聞く。
レストランで食事をする二人。停電になる。また「どうしてタナーが部屋に?」と聞くポート。ポートが一晩戻らなかったことを隠したかったというキットとタナーとの浮気を疑うポートに、キットも切れて「あなたこそ昨夜どこに?」と責める。
レストランで会った夫婦から「車に乗りませんか?」と誘われる。汽車よりも車のほうが早い。ただ3人は乗れないとポートがいうと、キットは「じゃ無理ね、タナーを置いていけない。」といい、ポートはひとりで車に、キットとタナーは二人で汽車で移動することになる。「心を決めたわ」というキット。
キットは汽車の中でタナーと酒盛り。ポートは車で夫婦と話しながら…。
砂漠の手前の街のホテル。部屋でキットが全裸で目を覚ます。隣には同じく全裸のタナー。「なにも覚えてない」と焦るキット。急いで自分の部屋に戻るタナー。
ポートとキットは自転車を借りて荒野を探索に出る。楽しそうにはしゃぐ二人。「こういう景色を君に見せたかった」二人は物憂げに遠くをみつめる。
楽しそうな顔はすぐに暗い顔になる。荒野に横たわり、ポートはキットのカラダをまさぐりキットもタナーのズボンに手を入れる。重なり合う二人。股間を押し付けるポート。「あなたは孤独を恐れない。ひとりでも生きていける」というキットに「僕には君だけだ。」というポート。抱き合いながら泣く二人。
乗り合いの深夜バスで移動する三人。車内はハエが飛び交い寝顔に襲い掛かる。「黒い雪」と呼ばれるこのあたりの名物らしい。
辺境の街。ほとんど砂漠。「ポートは(自分たちの関係に)気づいてる」と聞くタナーに、キットは「彼は知ってる。気づいていないだけよ」と言う。
街に一軒のホテル。食堂で出たスープには虫が何匹も入っている。キレたタナーは「市場でなにか食ってくる」と飛び出していく。
「幸せか?この場所が好きか?」と聞くポートに「そんなこと聞かないで。答えようがないわ。」とキット。
以前からつきまとっているデブ男・エリックにタナーを押し付けたポートは、やっとキットと二人きりになり、翌日、バスで次の街に向かう。
ポートのパスポートがない。どうやら昨夜、エリックに盗まれたようだ。砂漠を散歩する二人。そこは墓地。名前も日付もない、ただの陶器のかけらが砂漠に並べてある。
「どこか一か所で何日か落ち着きたい」というキット。「サハラで最も美しい街、エル・ガーに行こう」というポート。
熱にうなされはじめるポート。
現地の保安官から「パスポートがみつかった。明日、タナーがここへ持ってくる」と聞き、急いで街を発ちたくなるポート。エド・ガー行きのバスはしばらくないと言われたが、札を何枚も散らせながら「これでどうだ」と買収。「アメリカ人?」と聞かれる。
バスで移動中、また熱にうなされるポート。エド・ガーにつく二人。砂埃だらけだが行商が行き交い活気がある街。外でも突然倒れるポート。あきらかに体調がおかしい。
ポートを待たせ、ホテルの場所を案内してもらうキット。どんどん遠くまで歩かされ、やっと到着した場所にホテルはあったが中に入れてもらえない。理由は「疫病が流行っている。誰も入れられない」だった。
元の場所に戻ると、ポートは少しおかしくなっている。「この街を出なきゃ。チップはいくらでも払う。車を。」と現地の案内にカネを渡す。
外人部隊が駐屯しているというトバという街に移動することに。貨物車の荷台に乗り街を出る。
次の街で、ポートは腸チフスだと告げられる。
ここの街は穏やかで、世話をしてくれるおバァさんも優しい。しかし、栄養や薬を与えても症状は改善しない。
ポートはひさしぶりに意識を取り戻し「やっと戻れた。ここに戻れた。僕らのほかに誰かいる?君に会えて嬉しい。ドアには鍵がかかってる?君に話したいことがある。たくさんある。」とささやく。キットは「ひとりで寂しくて怖くて気が狂いそうになった。お願い、どこへも行かないで」と号泣。
「僕はずっと君のために生きてきた。それに気づいた。やっと。」と言う。
錯乱し暴れるポートに現地の人が鎮静剤を注射するが、翌朝、ついに力尽きる。
ポートの遺体をしばらく眺めていたキットだったが、気を取り直し、ポートの額にキスをすると、荷物をまとめて外に出る。
砂漠でひとりになったキット。
そこにラクダで通りかかった集団に近づき、若いアラブの男のラクダに乗る。
夜、集団と共に焚火に加わっている。男がキットのカラダや唇を探るように触りまくる。次の昼、次の夜…すっかり集団の一員となり一緒に移動を続ける。やがて、子供と笑いながらはしゃぐまでに変わる。
街。タナーがポートの墓の前にいる。
集団は自分たちの街に帰還した。オンナたちが出迎える。残りひとつになったトランクを抱えながら、キットもそこに同化している。
しかし、オンナたちに外れの部屋に連れて行かれ、外から鍵をかけられる。男が部屋にやってきてキットのカラダを洗う。そのままセックスをする。無理やりではない。むしろキットから積極的に。
外からそれを見て冷やかす子供と女たち。女たちの嫉妬の目。
ノートを切り抜き自分の「部屋」を装飾するキット。また男がやってくる。出ていく男に「またね」というキット。
ある街、エリック夫妻とタナーが再会する。あれからもう三か月たつ。挨拶するエリックだがタナーは素気ない。
キットの部屋の前で、子供と女たちが挑発的な音楽を奏でている。仕草で「出てこい」と指示する。表に出たキットは、被っていたターバンを外して素顔を露出する。静かになり、キットを睨みつけるように見る女子供たち。キットも、もはや感情のない表情で周囲を睨み付ける。
広場で市場が開かれている。彷徨うように歩いてきたキットは、スープを勝手に飲もうとして周りにとがめられると、懐から札を取り出し「フランスのおカネよ。」と払おうとするが、相手にされず大勢に取り押さえられる。
病院。ベッドに座っているキットに大使館の女性が声をかける「迎えに来た。ずっとひとりで?」と驚く女性。キットは保護された。
車で市街に送られるキット。グランドホテルをとってあるという。タナーが何度も領事館に問い合わせをしていたのだった。タナーはきっとホテルで待っている、と言う。
グランドホテルの前に着く。女性がタナーを迎えにいっている間に、キットはタクシーの中から姿を消していた。
ひとりで、最初に三人で訪れたバーに来ているキット。老人(原作者)に会う。老人が語る。
「迷ったかね。人は自分の死を予知できず、人生を尽きせぬ泉だと思う。 だが、物事はすべて数回起こるか起こらないかだ。 自分の人生を左右したと思えるほど大切な子供の頃の思い出も、 あと何回心に思い浮かべるか?せいぜい4,5回思い出すくらいだ。 あと何回満月を眺めるか?せいぜい20回だろう。 だが、人は無限の機会があると思い込んでいる。」
つまりこういう映画(語りポイント)
冒頭からいきなり、物語を象徴する比喩が続けて出てくる。
『来てすぐに帰ることを考えるのが「ツーリスト(観光客)」。帰らないかも知れないのが「トラベラー(旅行者)」私は半々ね。』
物語が進むにつれ、どんどん「もう引き返せない場所」に行ってしまう主人公・キットの運命を予見するセリフ。
そう、人間って「そうそう引き返せない」のだと思います。いつでも戻れる…そう思ってどんどんと進むうちに、いつの間にか「もう遠すぎる」場所まで行ってしまっている。そして、戻れないことを自覚し「その場所で生きていく」方法を模索する。そこで誰もが迷い「私はどこに向かっているのか」と自問する。まさに人生です。
後半、砂漠の土地ですっかり集団に馴染んで生きるキットの姿には、都会で生きていた面影はなく、流れゆく人間の宿命と強さを感じる反面、環境や背景によってなんとでも変わってしまう人間の主体性のなさを感じる。元来、人間には本質というものがない。人格や風貌さえ環境によって左右され形成されるものだと。無力な存在であるということ。
三人が持っている荷物が異常に多い。
あれは、アメリカの資本主義、都会で普通に生きてきた彼らが抱えている「いつのまにか増えてしまった荷物」「抱えているしがらみ。常識。」の比喩。そして、最終的に彼女は、赤いトランクひとつで砂漠をさまよう。物質主義への問いかけ。諸行無常。「モノ」にこだわる無意味さ。
「思いがけず遠くまで連れて行かれる」シーンがふたつ。
最初のほうでポートが娼婦のテントに連れていかれるところと、病院を探してキットが男の子についていくところ。「予想を超えた場所まで、流されていく」映画の流れを象徴するシーンですね。監督が意図して撮ったかはさておき。
砂漠という自然の強さ。ちっぽけな人間の弱さ。そこで「君が俺のすべてだ」と繰り返し言っていた夫・ポートの言葉の意味を、これ以上ない孤独の中に放り出されて初めて知るキット。
後半の40分くらい?の、字幕一切ナシのシーンが、この映画のなんたるかを最も雄弁に物語る。
どこかのレビューで「ポートED説」を書いている方がいました。なるほど!です。そもそも三人でのいびつな旅行。どうしてタニーが同行したのか。中盤の砂漠での夫婦のラブシーン(の、やや不自然な愛し方とその後の二人の表情)。
ポートが男性機能を失っているがゆえの、男性としての威厳を保てなくなっているからこその、あの「(言葉による)愛のささやき」であって、それに対する「キットの哀しい表情」なのですね。きっと正解だと思います。
二人は「定着した生活をしたことがないトラベラー」とのことですが、もちろん、そんな生き方を推奨したい映画ではなく、逆説で「家庭を持ちどこかに定住することの大切さ」を言いたいのでしょうし「人生は短い。あと何回、満月を見ると思う?」なのでしょう。
原作者の最後のモノローグ
「大切な思い出さえ、思い出すのはせいぜい4~5回。」だと。そういえば、僕らは人生でたくさんの人と出会い、話し、接しているけども、本当に心に残る友、大切に思う人間なんて、人生で数人しかいないはず。
そして、その想い出さえ、いつか思い出せなくなるくらいに遠ざかっていく。だからと嘆くのではなく、そういうもので、それが当たり前で、だからこそ、大切にすべき人を心から大切に思うことが大事。
原作者・ボウルズの言葉、本来はもっと「人間に厳しい」ものなのでしょうが、ここは「やや暖かめに」そう解釈しておくのが良い。
死ぬまで、誰かを想い、誰かの幸せを祈って生きていきたい。そう強く感じさせてくれる名作。
▼ベルトリッチ監督、これも不滅の名作。