【映画で語ろう】カムシネマ★3分で語れるようになるポイント【ネタバレあらすじ】

映画を観たなら語りたい。映画の紹介から、ネタバレあらすじ、著者の独断と偏見による「語りポイント」まで。

3分で映画『虹蛇と眠る女』を語れるようになるネタバレあらすじ

f:id:kyojikamui:20170322234329j:plain

基本データ・おススメ度

『虹蛇と眠る女』
原題:STRANGERLAND
2015年 オーストラリア・アイルランド
監督:キム・ファラント
出演:ニコール・キッドマン、ジョセフ・ファインズ、ヒューゴ・ヴィービング、マディソン・ブラウン、ニコラス・ハミルトン
 おススメ度 ☆☆☆☆☆(0/5)
 ニコール・キッドマンの後年の出演作チョイス(&プロデュース作)は、当たりはずれが多い。彼女になにかしらの「想い」が強いゆえのことなのでしょうが、この映画もかなり微妙で、空回り感。気持ちはわかる…けど説明不足すぎる。

<広告>

 

◆目次

あらすじ(ネタバレなし)

砂漠の街に引っ越してきた四人家族。ある日、セックス依存症の娘と夜間徘徊癖のある弟が行方不明になってします。必死に捜索する母・ニコール・キッドマンがどんどんおかしくなってしまい全裸で砂漠を徘徊する話。 

 砂漠の街に越してきた四人家族。父親マシューと妻キャサリン(ニコール・キッドマン)、小学生くらいの息子・トムと、高校生くらいで下着姿のエロい娘・リリー。このリリーの女優さんが魅力的。誰かに似てるのだけど思い出せない(注:個人的な友達の誰か)。リリーは、家に出入りしているやや知恵遅れっぽい男・バーディに下着姿を見せて喜んでいる。それを見て怒る父・マシュー。
 リリーは、広場に行き入れ墨をしたワルっぽい男を逆ナンパ。そのままどこかに消える。父は弟・トミーにお小遣いを私、姉を見張るように言う。
 夜、夫・マシューは「なんだあのふしだらな娘は。お前に似たんだ。」とキャサリンを叱る。夫婦喧嘩を聞いていた弟トミーは深夜なのにどこかに出かけていく。それを追いかけるように出かけるリリー。父・マシューはそれを見ていたがなぜか引き止めない(後に「イライラしていたので、懲らしめる意味で放っておいた」と言っている。)
 翌朝、子供たちがいない事に焦るキャサリン。夫は仕事である薬局に通勤していく。キャサリンは警察に行くが「95%は24時間で戻ってくる。24時間過ぎたら…」と帰されるが、24時間を過ぎても二人は帰ってこず、刑事のレイが担当となり捜査が開始される。

==以下ネタバレ==

<広告>

 

ネタバレあらすじ

 レイの聞き取りから、家族が引っ越してきた理由は、リリーが教師と関係を持ってトラブルになったからだとわかる。レイは、リリーがつきあっていたらしき入れ墨の若者や、やや頭の弱いバーディに聞き込みをするが手がかりはみつからない。キャサリンは夫にセックスを要求するが拒否られる。
 キャサリンは、部屋でリリーの日記を発見する。内容は、セックス依存症の娘の姿だった。まるで何かから逃げるように男と寝まくっていた記録が書いてある。そして「愛も性交渉もない両親を軽蔑する。最低。私は囚われの身。」と。キャサリンは涙する。砂漠の捜索が行われるが、リリーの友達も非協力的で、街の住民は「UFOにさらわれた。」「両親が殺したのでは?」などと噂話をするだけ。

 地元民であるバーディの母親は「虹蛇の伝説だ。歌えば帰ってくる」などと変なことを言い出す。のちに出てくる同様のシーンでは「白い子。黒い子。子供が消える」などと意味不明の言い伝えだったりする。
 バーディがリリーとセックスしていたことを告白し、夫・マシューに殴られる。
 精神的におかしくなってきたキャサリン。部屋でリリーの服を着てリリーのような化粧をする。そこに来たバーディを誘惑するが拒否られる。
 トミーが発見されるが、トミーは感情を失くしたかのように空を見つめるだけで何もしゃべろうとしない。ようやくしゃべったことは「リリーはクルマに乗った。」とだけ。刑事のレイがキャサリンの元に来る。キャサリンはレイにセックスを迫るが拒否られる。ひとりで砂漠に歩いていくキャサリン。大声でわめきながら。
 翌朝、なぜか全裸で街に帰ってくるキャサリン。マシューが保護する。
 「俺たちのせいだ。」と反省する夫婦。終わり。

つまりこんな映画(語りポイント)

 ニコール・キッドマンはアメリカ国籍と同時にオーストラリアの国籍も持っているらしい。オーストラリアに流れるなにかしらの空気や、作中で出てくる先住民族からの言い伝え「虹蛇の伝説」が、ニコールが惚れたという脚本の中に脈づいていることは想像がつくのだけど、少なくとも映画の中で「虹蛇の伝説」が説明されることはない。そして特にそれを検索して調べて映画を理解しようと思うほどの気力も沸かない。

 昭和の時代、映画も演劇も「説明を省いて観客に委ねる」手法がもてはやされた時代があった。それはそれで面白いのだけど、今の時代、観客がそんなことを望んでいない。「意味わからない=面白くない」で終わり。悪くはないと思うけど時代遅れなのです。今は、物語を提供する側には最低限の説明義務がある。じゃないとウケない。

 要は、あまりにも自分勝手なスピリチュアルすぎるのです。

 先住民の伝説とか、うまくアレンジすれば面白くなりそうですし、砂漠の街というシチュエーションは悪くないのです。だからいろいろもったいない。結局帰ってこないし理由もわからない娘も、なにかしらの説明は必要。もしかしたら、最後のナレーションがその「答え」なのだとしたらあまりにも抽象的。

  そこで、そんな深読みは捨てて、映画を普通に観て感じた解釈では…。

 セックス依存症の娘が家出(?)をして悲しむ母親。その哀しみぶりや錯乱ぶりが尋常じゃないことから、母親・ニコール・キッドマンもまた、若い頃から精神的に脆い面を抱えて生きてきて、娘・リリー同様にセックス依存症だったと思われる。
 それは、ふしだらな娘を見て「お前に似たんだ」という夫のセリフとか、淫乱日記を見て悲しむ素振りとか、男にセックスを拒否られた時に「私のなにが悪いの!」と錯乱するあたりからも明白。娘と同じく「なにかから逃げるように男に依存して生きてきた」自分への哀しみと、それが娘にも遺伝(?)してしまったことに対する哀しみにとれる。因果応報。女として生きるか母として生きるかは難しい選択だけど、わかっているのは、頑張るべきは「人間として」生きること。
 
 えっと…それくらいです。

 ニコール・キッドマンの体当たりの演技と、娘・リリー役の女優さんの可愛さで、つい最後まで観てしまいました。マディソン・ブラウン…という女優さんらしい。

▼これより15年近く前、33歳の頃のニコール・キッドマン。まだ「カワイイ」というイメージも強い頃。これも映画自体は……ですが。

cinema.kamuin.com