基本データ・おススメ度
『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』
原題:FUR
監督:スティーヴン・シャインバーグ
原作:パトリシア・ボズワース 『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』
出演:ニコール・キッドマン、ロバート・ダウニー・Jr、タイ・バーレル
おススメ度★★☆☆☆(2/5)
映画の元になった実在の写真家ダイアン・アーバス。素晴らしい芸術家だと思います。ただ、この映画を作った人に「あなたはダイアンをどう思っていますか?」と問いたい(詳しくは「語りポイント」に)。いかにもニコール・キッドマンが選びそうな、アメリカ映画らしくない脚本。邦題がヒドイ。
<広告>
◆目次
ダイアン・アーバス
『子どものころお母さんに言われたものです、「ゴム長靴を履きなさい、風邪ひくから」。大人になったとき、あなたは気がつきます。ゴム長靴を履かないで風邪をひくかどうか確かめる権利があなたにはあることを。そういうことなのです。』
ニューヨーク州ニューヨークにてユダヤ系の家庭に生まれ、1940年代から主としてファッション写真をこなし、18歳で結婚した夫アラン・アーバスとともに、「ヴォーグ」、「ハーパース・バザー」、「エスクァイア」などの雑誌で活躍する。その後、フリークス(肉体的、精神的な障害者、肉体的、精神的に他者と著しく違いがある者、他者と著しく異なる嗜好を持つ者など)に惹かれ、次第に心のバランスを崩し、ニューヨークの自宅アパートのバスタブで自ら両手首を切って自殺した。享年48。(wikipedia)
あらすじ(ネタバレなし)
「この映画はフィクションであり、ダイアン・アーバスへのオマージュである」とのテロップ。
冒頭。あるヌーディスト村を訪ねるディアン(ニコール・キッドマン)。黒い毛皮のコートを着ている。自分も脱いで同化するかどうかはまだ決めかねている。
3か月前。
1958年、ニューヨーク。ディアンは、カメラマンの夫アランの助手をしていた、スタジオでは、世界的な毛皮メーカーの新作発表会が行われていた。アランの仕事は、その写真を撮ること。
ディアンは、窓から偶然見えた「毛糸の覆面を被った男」と目が合う。上階に引っ越してきた住人のようだ。なぜか動揺し具合が悪くなるディアン。
ディアンと夫のアランはうまく行っており、優しいアランに何の不満もなかった。
2週間後、ディアンの娘から排水管が詰まっていると知らされる。調べると、そこには大量の毛が詰まっていた。毛の中にはなぜか鍵も。上の階を訪ねたディアンは「犬を飼ってますか?毛が詰まって困っています。」と告げるが「犬は飼っていない」との声。ディアンはゴミ処理場に毛と鍵を捨てる。
気になってマンションの地下室に侵入したディアンは、全身毛むくじゃらな男の絵画や妙な椅子をみつける。そこで掃除をしていた女性に話しかけると、彼女は「ライオネルの友達」と言う。ライオネルとは上階に越してきた男の名前らしい。
ディアンは、寝ているアランに気づかれないようにカメラを持ち出すと上階へ行き、ドア越しにライオネルに話しかけ「写真を撮らせてほしい」と言い出す。ライオネルが「明日の21時なら」と提案する。「なぜ見知らぬ者を撮りたいのだ?」と聞かれ「眠れないから」と答える。さらにライオネルは「鍵は受け取った?」と言う。
あの鍵は、ライオネルが意図的にディアンに渡すために排水管に流したもの。急いでゴミ処理場に走り鍵を手にするディアン。
約束の時間、部屋を訪ねるディアン。部屋には、不治の病に関する本や、異形の人間の写真、さらに「サーカスで見世物にされている幼少時代のライオネルの姿(映画かドキュメントかは不明)」の映像が流されていた。「ディアン、お茶をどうぞ」との書置きがある。隠れて様子を見ているライオネル。
ライオネルは「眼を閉じて」「服を脱いで」などと指示を出す。やがて顔を見せたライオネルは、まるでライオンのように全身に毛が生えていた.
▼▼以下ネタバレ▼▼
<広告>
ネタバレあらすじ
ライオネルは「君は何歳で経験した?ドアマンとか庭師とかとやった?」などといきなり失礼なことを聞き始める。ディアンは常時興奮した様子で、質問に答えていく。浴室から露出した過去の話も、自分から話す。
「昔、僕みたいな誰かを家に誘った?」と聞くライオネル。「顔にアザがある男の子を家まで送った。それきりだけど。それ以来、冒険したくなった。」「でも、結局、夫の妻になった」と話すディアン。
ライオネルは自分が多毛症という病気だと告げる。子供のときには毎朝5時に起きて毛を剃ったが、無駄だったと。ディアンは朝まで眠ってしまい急いで家に戻る。ディアンが寝ている間に、ライオネルは彼女のカラダのサイズを測っていた。
翌日、アランと街を歩きながら「仕事を休みたい。自分で写真を撮りたい。」と言い、アランは許可する。しかし、ライオネルと写真に夢中になっていき、ディアンは家事をしなくなった。荒れ放題の部屋と同様、アランの仕事もスランプに陥った。
ライオネルに連れられて行った知人宅で、裸で抱き合う男女をみて目を輝かせるディアン。今度は素顔で一緒にレストランに行く。
ある日、ディアンが家に戻ると、夫のアランが筋トレをしていて、寂しそうな顔で「楽しかった?と聞く。二人は愛し合う。アランが「いいか?」と聞くとディアンは「怖いのがいい」と答える。
ライオネルがアランに会いたいと言い出す。ライオネルの風貌に困惑するアランだったが、三人は普通にテレビを見たりする。ディアンを挟んでお互いをライバル視するアランとライオネル。
ライオネルはすっかり家庭に入り込み、ディアンの娘たちと遊んだり「不思議の国のアリス」を読み聞かしたりしています。(旦那の立場は?)ディアンは、ライオネルつながりで知り合う「同性愛者」や「身体に障がいのある人たち」との交流を楽しむ。ベッドでお酒を飲む。もはやすっかり夫婦のよう。
アランは対抗してヒゲを生やしだした。
ディアンは天井の板を外すとライオネルの部屋に続く階段になっていた。階段から降りてくるライオネルの友達たち。アランは呆然としている。勝手にアランの家でパーティを始める。アランは怒って「仕事があるから」と外出してしまう。「君も一緒に行こう。帰ってもらえ。」と言ってみるが、ディアンは聞かない。
病気で余命わずかなライオネルは「いよいよ息が苦しくなってきた」と友人たちに手紙を書いている。
ディアンの誕生パーティ。ディアンはライオネルを連れてきて両親に紹介するが、両親は呆然。アランは、ディアンとの出会いや、今でも愛していることをみんなの前で語る。聞いているライオネル。ディアンの自室、ライオネルが来て余命わずかなことを告げる。二人はキスをしようとする。そこにアランが入ってきて「……。」となり、無言で出ていく。
夜、アランは怒りをぶつける。「なんだ、あの男は。俺が許可したのは撮影だけだろ。」と。ディアンは「わかった、終わりにする」と言い、ライオネルの家へ向かう。。
ライオネルの部屋へ行くと、ライオネルは全身毛むくじゃらの裸でいて、なにか言おうとすうrディアンをさえぎり「毛を剃ってほしい」と頼む。まずハサミで毛を切り、次にカミソリで、丁寧に剃りあげていく。
ロバート・ダウニーJRの顔がようやく露出される。ライオネルはディアンの服を脱がし、キスをし、初めて愛し合う。
同じ頃、アランの家では、娘たちがディアンが隠していた写真を取り出している。アランは写真を壁に張り出していく。
翌朝、ライオネルは毛を剃った理由を「泳ぎだすため」と言う。そして、ディアンにも一緒に来て欲しいと。「そばにいて欲しい」というとディアンは「そのために私を誘惑したの?」と複雑な表情を浮かべる。
ライオネルのポートレートを撮影した後、二人は海へ。
ライオネルは「自分の毛で作ったコート」をディアンにプレゼントすると、海に飛び込み、どんどん沖へと泳いでいくライオネル。ディアンも追いかけるように潜るが、やがてひとりで砂浜に戻ってくる。そして、波打ち際に寝転び全身で海水を感じる。
自宅に戻ったディアン。鍵を差し込んでも開かない。アランがすでに鍵を交換していた。室内で気配を感じ複雑な表情のアラン。
ライオネルの部屋へ行くと、やがて、ライオネルの異形の友人たちが出てくる。友人のひとりから一冊のアルバムを受け取る。しかし、中に写真は一枚もなく「題名未定、撮影・ダイアン・アーバス」とだけ書いてあった。
三か月後、冒頭のヌーディスト村。
裸になって同化しているディアン。女性に話しかけ「秘密を教えて」。「まずあなたから」と言われ「わかったわ。」と答える。
つまりこういう映画(語りポイント)
ロバート・ダウニーJRが「全身毛むくじゃら男」ってどういうことよ?と思います。観る前には。
▲はい、こういうことです。
まず、この映画は伝記ではなく「ダイアン・アーバスの生き方をヒントに、オマージュとして作られたフィクション」という前提がある。
実在のダイアン・アーバスという人に共感し「芸術家とはそういうもの」と理解するのも、彼女が異形の人に興味を持った理由や、偏見なく世の中を見つめた時に自然に興味を抱いたものを撮っただけ、という話にうなづくのも、それはそれで良い。充分に共感できる。素晴らしい写真家、芸術家だと思います。
ただ、あくまでこの映画を観た感想で言うと…、
映画が、彼女を肯定(擁護)する内容になっていない。いや、作り手が確信的に「それでいい、そのうえでダイアン・アーバスを語りたい」という事であれば仕方ないけども。僕は「う~ん、それでいいの?」と思ってしまいました。
芸術家以前に人間として、自分の人生のために誰かを犠牲にしてもいいのか?という疑問が湧くのです。
「普通の人」である夫・アラン側の視点から見ると、まったくもってヒドイ話で。。若くして結婚し、妻に助手の仕事を与えながら家庭を築いてきたのに、突然、妻が生活に飽きて、フェチ趣味に目覚め、エゴ全開で「新しい男」の刺激に酔い、家庭をおそろかにして家を出て行った話、ですから。
「芸術家とはそういうもの」とディアンを擁護することもできるけど、それなら、なぜ若くして結婚して、それまで幸せな家庭に収まっていたのか?ということ。
一念発起…もあるでしょう。それまでの自分の人生の選択を一旦リセットしてなにかに挑戦するのもアリでしょう。ただ、そこで夫のアランを傷つけること、アランの人生を狂わせることに関して、劇中のディアンは一切思考しない。考えようともしていない。あまりに自分勝手。
それはきっと、脚本として意図的にそうしたのだろう。だとすると描きたかったのは「破滅」ということになり、やはりこの映画は「ダイアン・アーバス非難」の映画なのです。冒頭の但し書きは、試写を見た遺族が怒って「フィクションだと入れてくれ。」と要求したのだと思われる。怒る気持ちはわかる。
もしかしたら、映画で描かれたディアンは、ダイアン・アーバスそのものなのかも知れない。ダイアン・アーバスはひどい人なのかも知れない。そのうえで、彼女のイキザマを世に問う目的で作られたのかも知れない。
だとしたら、破滅的な人生を歩んだ実在の女性死刑囚を描いた「モンスター(2003)」のアイリーン・ウォーノスと、ほぼ同じ扱いに思える。
偉大な芸術家ダイアン・アーバスに、もう少し敬意を込めて作ってほしかった。そんな映画。
原題はFUR「毛皮」ですが、あまり毛皮は関係ない。どっちかというと「毛」ではないかと。
▼「モンスター」こちら