基本データ・おススメ度
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
原題:Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance
2014年 アメリカ
監督:アレハンドロ・G・イニャリトゥ
出演: マイケル・キートン、エドワード・ノートン、エマ・ストーン、エイミー・ライアン、ナオミ・ワッツ
おススメ度★★★★★(5/5)
延々と続く疑似ワンカット…。スタッフが一切写り込まない鏡前の芝居…。撮影手法の斬新さと、現実と妄想を混在させたストーリー。オスカー作品賞を取ったとはいえ、イニャリトゥ監督のダークさは健在。最も得意とする「失った愛を取り戻そうとする男」⇒「娘との関係を描く」手法は鉄板。
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◆目次
あらすじ(ネタバレなし)
リーガン(マイケル・キートン)は、かつて『バードマン』というヒーロー映画で主役を演じた有名人だが、近年は目立った活躍もない中高年俳優。年齢はすでに60代。
リーガンは、自分が俳優になる決意をしたレイモンド・カーヴァーの短編小説 『愛について語るときに我々の語ること』を脚色し、演出・主演でブロードウェイの舞台に立つことにした。親友で弁護士のジェイクがプロデューサーになり資金を集めてくれた。
いよいよプレビュー公演が迫っている。
しかし、全盛期をとっくに過ぎた自分自身の歯がゆさと、慣れない演劇の世界の洗礼を受け、現実とプライドの狭間で葛藤が芽生えたリーガンは、控室で自分に語り掛ける「バードマン」に悩まされ始める。
バードマンは「なにやってんだ、お前。こんな地味な舞台なんてやってもなんにもならないぞ。昔みたいにハリウッドで稼ごうぜ」と挑発してくる。
出演俳優が怪我で降板し、代役としてマイク(ブエドワード・ノートン)をブッキングした。彼は舞台で活躍する俳優であり、心のどこかでヒーロー俳優のリーガンを舐めていた。本番舞台上での面談からプライドとワガママを全開にする。プレビュー公演本番中にも、マイクは女優とのベッドシーンでセクハラまがいの行動で問題を起こす。舞台上が騒ぎになり、プレビュー公演は酷評される。
==以下ネタバレ==
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ネタバレあらすじ
ブロードウェイでの成功の鍵を握る批評家が居た。初老の彼女は、バーで声をかけてきたリーガンに「話にならない」と言い放つ。「ふざけんな」とキレるリーガンだが、批評家は冷たい。
リーガンの娘、サム(エマ・ストーン)はスタッフとして公演に関わっているが、薬物依存症で最近まで入院していた。リーガンと妻の離婚など家庭環境も影響していた。サムは、落ち目の父リーガンに「お父さんは何もわかってない。FacebookもTwitterもやってない。お父さんはこの世に存在しないのと同じ」などと辛辣な言葉を浴びせる。
さらにサムは、マイクと関係を持ってしまう。舞台袖でキスをしている二人を見てイライラが募るリーガン。本番中に誤って半裸で外に飛び出してしまい、その様子は動画サイトにアップされアッという間にアクセスを稼ぐ。娘のサムは、動画サイトを見せながら「もう何万アクセスも。わかった?これが現実。」と言う。
リーガンの幻想がますます酷くなってくる。
リーガンはビルの屋上から飛び降りた…と思いきや、バードマンに変身し、街中を飛びながら劇場へ向かった。タクシーの運転手が「料金を…」と声をかけている。(本当はタクシーで劇場入りしたのか?)
控室には別れた妻も激励にかけつけた。
リーガンは意を決し、本物の銃を持って最終シーンに臨む。自分のこめかみに銃口を当てて芝居をするリーガンだが、銃の引き金を引き、リーガンは倒れる。しばらく静寂となる客席。やがてスタンディングオベーション。
リーガンは病院にいた。新聞では「舞台上で自殺未遂」と報じられマスコミが殺到している。娘が見舞いにくる。
リーガンは病室の窓から宙に飛んだ。窓から上空を見上げ笑顔のサム。
つまりこういう映画(語りポイント)
イニャリトゥ監督は、嗜好的に間違いなくダークサイドの人で、今回は趣向を変えてコメディタッチに作ってはいるが、本来のこの監督を知るには『21グラム』『バベル』『アモーレス・ペロス』を観ればよい。突発的に訪れる不幸、 絶望的な設定の中で「家族愛」を描くのが基本パターン。そんな監督がオスカー作品賞と聞いて、よほど万人受けする映画を作ったのかと思ったら、なんのなんの、いつものイニャリトゥさんでした。ダークさという意味で。
きっと、この映画も、わからない人には「さっぱりわからない」んだろうし、わかる人には「嫌というほどわかる」…面白いか面白くないかでいえば賛否両論でしょう。それでもレビューで絶賛が多いのは「アカデミー賞をとったんだから良い映画に違いない。」と云う認知的不協和によるものと見た。もし賞をとっていなければ「面白くない」という意見が増えると想像できる。
全編疑似ワンカット演出は、妄想、夢にありがちな「不条理な展開」「物事の非連続性」を現すには見事な効果で「あー、夢ってこんな感じで展開するよね」と納得できる。ただ、あくまで「疑似ワンカット」です。実際は、相当にカット割りはしているはずです。そのうえで、ワンカットのように編集しています。
個人的には、ワンカット云々よりも、鏡の使い方のほうに感心しました。実際はそこにいるはずのスタッフが一切写り込んでいないのは斬新な絵。もちろん、CG合成で消しているわけですが。だから「なんだCGか」ではなく、その発想自体が凄い。
「事実」を追わずに、主人公の中(だけ)にある「真実」を追うべき映画。
「あの超能力はなんだったの?」なんて言ってはいけない。スクリーン上の出来事をすべて信じて観てしまうから混乱する。信じなきゃいい。超能力=主人公の果てしない自己評価の高さと傲慢さを現した比喩だけども、そんな解釈は後廻しにして、どれが事実?どれが妄想?なんて考えながら観るのが、この映画の楽しみ方。
もう半分くらいは妄想やん!それくらいに思って観ているうちに、やがて、それが事実だろうが妄想だろうが、もはやどうでも良くなってきて、ただ、主人公の中にある「真実」だけが、そこに浮かびあがってきたらビンゴではなかろうか。
どこまで現実…どこからが妄想…ではなく、ところどころに妄想が挟まっているのだと思います。ひとつには、別れた妻が控室に激励になんて来ない(キッパリ!)。普通、来ない。気持ちがあったとしても、せいぜい花を届けるくらいではないか。最後に世間に絶賛されたり娘と和解したりするのと同様、妄想。
病室に見舞いに現れた娘。掌を返して絶賛する評論家…etc…その後の、窓から飛び出すラストシーンについて、あれこれ論議されてもいますが、ステージ上の発砲から以降のシーン…は、すべてが主人公の妄想でしょう。なんなら、それ以前のビルの屋上のシーン、あそこで飛び降りてリーガンは死んでいると、僕は解釈してます。
全体のテーマとしては……、
映画と演劇、ヒーロー物と一般物、デジタル社会とアナログ社会、男と女、過去と現在…さまざまなモノを対比させながら、それぞれの立場が持つプライドとコンプレックスを皮肉たっぷりに描いている。
バーで「舞台のことを勉強しろ」とエドワード・ノートンが説教しているときに、マイケル・キートンに、映画ファンがサインを求めてくるシーンがある。エドワードはシャッターを押してくれと頼まれる。「ところ変われば品変わる」。映画人と演劇人、両者のプライドとコンプレックスが同時に刺激される、面白いシーンです。
「フェイスブックもツイッターもやっていない、パパは存在しないのと同じ」という娘と、「スマホの世界なんて捨てて、現実を見ろ」と叫ぶエドワード・ノートン。インターネットの普及という大きな世界の変化を挟んで、それぞれの想いがある。そこはもう、各自の感覚で「なにが正しい生き方か」を捉えれば良い。
人間の幸せは、誰かに愛されること。誰かを愛すること。これに尽きる。富や名声じゃない…と言っても、愛されるためには富や名声が力になるという現実的なご都合はあるけども。最終的には、劇中劇の原作者の言葉が、この映画のすべてを現している。
そして、君は得られたのか? この人生で求めたものを。私は手に入れたよ。 君は何が欲しかった? 愛された者と呼ばれること。愛されたと感じること。この地上に生きて。
レイモンド・カーヴァー