基本データ・おススメ度
『スティーブン・キング ビッグ・ドライバー』
原題:BIG DRIVER
2014年 アメリカ
監督:ミカエル・サロモン
原作:スティーブン・キング
脚本:リチャード・クリスチャン・マシスン
出演:マリア・ベロ、オリンビア・デュカキス、ジョーン・ジェット、アン・ダウド、ウィル・ハリス
おススメ度★★★☆☆(3/5)
スティーブン・キングにしてはヒネリが少ない…ですが、むしろそこが狙いっぽい。それによって単純に面白い。物語は、自分を襲った男への中年女性の復讐劇。暴力社会へのアンチテーゼ、善人の中に潜む暴力性、さらにはエンターテイメントへの皮肉。ヴァイオレンスが嫌いじゃない人ならドゾ。厳密にはこれ、映画ではなくテレビ・ドラマらしいですが。
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あらすじ(ネタバレなし)
中年女性・テスは売れっ子推理小説家。大きな屋敷に住み、執筆と講演活動に忙しい。ある町で講演を終え車で帰路に着く際、主催者のオバサンから近道を薦められる。「一時間は早く着く」なら有り難いと、カーナビに道順まで入力してもらう。
ナビに従って国道から脇道に入るテスの車だったが、荒れた道で釘の刺さった板を踏んでパンクしてしまう。困ったテスは通りがかったトラックに助けを求める。出てきたのは巨漢の大男で「俺がタイヤ交換をしてやる」という。感謝するテス。
しかし、男のトラックの荷台に釘を刺した板が積んであるのを発見したテス。これは男の策略だと気づくが、逃げる間もなく殴られ執拗にレイプされる。血だらけになり意識を失ったテスは森の中の下水管に捨てられたが、運よく目を覚まし命をとりとめた。下水管の中には複数の女性の死体が…。
あまりのことに錯乱するテスだったが、歩いて隣町までたどり着きながら、混乱気味の記憶を整理する。テスは売れっ子作家だ。事件を明るみにするわけにはいかない。なるべく何事もなかったかのように日常生活に戻ることを優先した。
==以下ネタバレ==
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ネタバレあらすじ
何気なしにふるまっても顔の傷は隠せず、周囲から「きっと彼氏と喧嘩して殴られたのよ」などと陰口を叩かれるテス。
現場に置き去りにした車の件で、現場近くのモーテルから電話がある。「取りに来ないとそっち持ちでレッカー呼ぶよ」と言われ渋々現場近くまで戻ると、モーテルの支配人(ジョーン・ジェット)は女性で、幼い頃に義父に暴行を受けて片目が義眼であることや、過去の心の傷について語りだす。
「女同士の共感は永遠」と意味深に言う女から、なにかのメッセージを受け取ったように、テスは男への復讐を誓う。
テスには「仲間」がいた。小説の登場人物のお婆さんと、なにかとアドバイスをしてくれるカーナビ。但し、それは彼女の中の幻想。心の声。潜在意識の中の「二人」と共に推理を進めるテスは、近道をすすめたオバサンが怪しいと見る。銃を持ってオバサンの家へ押し入ると、オバサンは「そうよ。貴女は息子へのプレゼントだったの。」と白状。テスはオバサンを殺す。
現場近くで張り込みをするテス。ガソリンスタンドで男をみつけたテスは、先回りし、トラックから降りてきた男を射殺するが、それは人違いで、男の弟だった。
本人の家へ潜入するテス。部屋には、過去のレイプ現場の写真がたくさん貼られていた。さっき殺した弟も共犯者だった。プリンターから、テスが襲われている写真も出てくる。
本人に近づき足を撃った。さらに釘の出た板で頭を殴り、瀕死の男の股間に向けて弾丸を撃ち込んだ。復讐は成功。
連続暴行殺人事件はニュースになる。テスは、自分のことも明るみに出ることがあるかも知れないが、そうなったら仕方ない、但し、自分から情報提供はしないと決める。
日常に戻ったテス。小説の登場人物のおばあさんが言う。
「誰にでも暴力性はあるのよ。暴力を小説に書いたら、それは暴力を行使したのと同じ」(というような意味の)セリフを言う。
電話がかかってくる、女の声。モーテルの女。
「わたし、知ってるのよ。」
つまりこういう映画(語りポイント)
スティーブン・キングにしてはヒネリが少ない…と思ってしまいがちですが、むしろ、そこが映画のキモ。ヒネリがありそうで、いかにもヒネリそうなミス・リードまで仕掛けといて、それでもヒネらない。「ヒネりそうでヒネらない」ことでちょっと驚く、という不思議。
具体的に書きますと、
事件の後、テスが錯乱して記憶が混乱する描写があります。事件を忘れないように、自分で自分の留守番電話に吹き込んだり、小説のように文字に書き留めたり、必死に忘れないようにします。これがミス・リードとして機能しています。
映画をたくさん観ている人なら、もうこの時点で、いくつかの展開が想像できるはず。例えば僕は、彼女が「自分が作った虚偽の記憶に惑わされる」ストーリーかと思いました。真実と妄想が混在してしまい、無実の人を犯人と思い込んでどんどん殺していく物語かなと。作家が自分の物語の中に溺れていくというでも成立するでしょうし。他にもいくつか、いかにもスティーブン・キングっぽい展開が頭に浮かぶと思います。
きっと、ここでそう思わせるのが狙いなのです。
「カーブかフォークか、ここから変化球で来るに違いない。さて、どっちに曲げる?」とあえて想像させておいて、実はド・直球を投げるという。「肩透かしによって生み出す意外性」とでもいうか、僕はわりと感心させられました。「そのテもあるか」くらいに。
加えて「映画なんて暴力を描いときゃ成立する。他のストーリーなんていらない」という、エンターテイメント業界への強烈な皮肉でもある。悪人の暴力に対して、善人たちが選んだ武器もまた暴力。そこをストレートに描くことに意味があった。
というわけで、後半は、ただひたすら男に復讐をする物語です。そして面白いです。
彼女のアドバイザーとして登場する「小説の登場人物のお婆さん」や「普通に喋るカーナビ」(=二人とも実際にはいない。彼女の潜在意識をあらわすキャラ)は秀逸です。
「死んだ人間が死んだ後にしゃべる」描写も含めて、不条理なことが不条理に見えない巧さがあります。瞬時に、これは彼女の内面でのことだと、前後の現実と判別できるので違和感がない。
テーマとしては「人間のなにげない行動が他人にとっては暴力同然にも成り得る」「誰もが内に秘めた暴力性」あたりで、暴力へのアンチテーゼ、傲慢や思い上がりへの警鐘、でもある。
但し、それらを綺麗ごとで終わらせないところも良い。
ラスト、モーテルの女(ジョーン・ジェット)からの電話は、暴力に泣き寝入りしてきた同胞としての「ハイタッチ」でしょう。暴行した男の股間に弾丸をぶちこんでハイタッチする女たち、ということ。決して「復讐の後には何も残らない」とか「虚しさ」じゃないんですね、ここは。「復讐して痛快!」なのですよ。
最後にまた「善人の中の残酷性」を浮き彫りにして終わる。
そこはやはりスティーブン・キング。 ド・直球を投げても実は充分に曲がってます。