【映画で語ろう】カムシネマ★3分で語れるようになるポイント【ネタバレあらすじ】

映画を観たなら語りたい。映画の紹介から、ネタバレあらすじ、著者の独断と偏見による「語りポイント」まで。

3分で映画『街の灯』を語れるようになるネタバレあらすじ

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基本データ・おススメ度

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『街の灯』
原題:City Lights
1931年 アメリカ
監督:チャールズ・チャップリン
出演:チャールズ・チャップリン、ヴァージニア・チェリル、フローレンス・リー、ハリー・マイヤーズ
 おススメ度★★★☆☆(3/5)
 「花売り娘に恋をした浮浪者」を描いたハートウォーミング作…とも言われていますが、実のところは、格差社会の現実を描いた残酷な物語。同時に「自分のためじゃない。誰かのために生きること。」と云う幸福の真理を描いてもいるが、ハッピーエンドかバッドエンドかは、なんとでも解釈できるように作られたラストシーンの捉え方による。希望と絶望が混在した不朽の名作。

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あらすじ(ネタバレなし)

 冒頭、「平和の式典」が行われている。お金をかけた巨大なモニュメントの除幕式。幕をとると、そこにはひとりの浮浪者(チャップリン)が居眠りをしていた。

 街角で盲目の花売り娘と出会うチャップリン。一目ぼれしたチャップリンは娘に優しく接する。

 夜、妻と別れ自殺しようとしている富豪と出会い、結果的に助け、友達になる。

 チャップリンは、花売り娘の前では紳士を装っていた。富豪の車で家まで送ったりしたことで、盲目の娘は、てっきりお金持ちの紳士だと思い込む。

 花売り娘の家は貧乏で、22ドルの家賃を明日までに払わないと追い出されてしまう。さらに、目の手術代も必要。なんとかしたいと思ったチャップリンは、必死に奔走し、娘のためにお金を作ろうとする。

 職にありつくがすぐにクビになる。八百長ボクシングに出るが、八百長のはずが本当に強い相手と戦うことになってしまい、負けて一銭にもならない。
 途方に暮れるも、娘のために頑張るチャップリン。

ネタバレあらすじ

 街で、酒に酔った富豪と再会する。娘の事情を話すと1,000ドルもの大金をポンと出してくれた。喜ぶチャップリンだが、たまたま入ってきた強盗と遭遇、警察が来た時、強盗たちは逃げた後で、チャップリンが強盗だと誤解されてしまう。

 富豪は、酒に酔っているときは「友よ!」と寄ってくるのだが、一旦、酒が抜けると、チャップリンの顔さえ覚えていなかった。無実は立証されず逃げるチャップリン。

 チャップリンは、花売り娘に大金を渡してその場を去る。そして刑務所行きになる。

 時は流れ、出所したチャップリン。花売り娘がいつも座っていた場所に行って見るが誰もいない。街の子供たちがチャップリンをからかって石をぶつけてくる。怒るチャップリンだが、その悪戯によってチャップリンは娘と再会する。たまたま子供たちに石をぶつけられて立ち止まっていた場所が、花売り娘が目の手術に成功し、その後経営しているらしき立派な花屋の前だったのだ。

 娘は、成功した今も、店に花を買いに来るイケメン紳士を見ては、お金持ちで立派なあの時の紳士が、いつか自分の前に現れることを夢見ていた。

 娘の顔を見て、驚きのあまり固まるチャップリン。

 娘は、浮浪者が自分を見ているのを不思議がり、店員に「私のことが好きみたい」と笑う。

 そして、哀れみから小銭と一輪の花を差し出す。受け取らずに去ろうとするチャップリンだが、思い直し、受け取る。

 その時、チャップリンと娘の手が触れた。娘は、手の感触で、あの紳士がこの浮浪者だと確信する。

 「あなただったの?」と言う娘。

 「目が治ったんだね。」とチャップリン。花売り娘は「ええ、目は治りました。」と答える。

 はにかむチャップリンの顔で。終劇。 

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つまりこういう映画(語りポイント)

 80年以上前の名作。さんざん語り尽くされていて、今さら新しい解釈もない。必然的に誰かの受け売りにはなりますが、ポイントをまとめます。

 格差社会の現実

 貧乏な花売り娘と浮浪者のチャップリン。底辺同士の出会いから始まる本作ですが、同時に、チャップリンは自殺しようとしていた富豪とも出会います。この二つの出会いと対比が、この映画の重要ポイント。

 盲目の花売り娘の目を治す手術代を稼ぐために、チャップリンは奔走します。工場で働いたり、八百長ボクシングに出たり、それで稼げるお金なんて小銭程度なのですが、それでも頑張って稼ごうとする。かたや、友達になった富豪に事情を説明するや「1000ドルもあればいい?」と、軽~く財布の中から大金を出します。

 少しのお金のために命を削る労働者と、まったく痛みを伴わず、あっさりと大金を出すお金持ち。この対比は厳しい。現実的すぎる。

 しかも、富豪は、酔っぱらっている時だけチャップリンのことを覚えていて、酔いが覚めたらすっかり忘れてしまう。自分の機嫌が良いとき(酔っぱらっている時)は、いとも簡単に大金を出すが、機嫌の悪いとき(シラフのとき)には、顔さえも覚えていない。もちろん、お金なんて一銭も渡さないし、チャップリンが強盗と間違われていてもしらんぷり。

 これは、人間の身勝手さと社会の厳しさを表現するメタファーではあるけど、だからといって「社会って厳しいんだぜ。」「それが資本主義さ。」などと言いたかったわけではないはずだ。

 その証拠に、浮浪者であるチャップリンは、そんな富豪のふるまいや変化に接しても、何も変わらない。妬む素振りもなければ、悔しがったりもしない。道端で大声を張り上げて社会の文句を言っている人ってたまに見かけますが、もちろん、そんなこともしない。

 チャップリンはチャップリンのまま何も動じず、ただ花売り娘の心配をしているだけなのです。

 チャップリンが言いたかったことがそこにあるような気がします。「幸せってなんだと思う?」という問いかけが聞こえる。

 自分のためじゃない。誰かのために生きる。

 僕は、人間「自分のために」生きている限り、絶対に幸せになれないと思っています。「誰かのために」「なにかのために」生きること。それしか方法はない。

 「街の灯」がすべての世代に感動を届けたのは、浮浪者のチャップリンが身を粉にして花売り娘のために人生を投げうつ姿が、わかりやすく、共鳴しやすかったから。

 映画を作る際、もちろんそこは狙いとして強く意識はしたはず。ただ、チャップリンのことだから、そこになにかしらの皮肉が込められているような気もする。結婚制度なのか、奴隷制度なのか、階級、人が生きるステージの違いとか。なにかに対するやりきれなさや皮肉。それはラストシーンの解釈にもつながるポイント(後述します)。

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 「花売り娘=娼婦」説

 街頭で花を売る盲目の娘。それが売春のメタファーであるという説があります。そういえば、中盤、娘ではなく年老いた母が街頭で花を売っているシーンがあります。街行く人が見向きもせず通り過ぎていく短いシーン。

 花売りが売春だとしたら、あのシーンは、年老いて誰にも相手にされなくなった娼婦、の比喩ということ。

 だとしたら「無常感」を言いたいのだろうし、人が老いていく哀しさ、残酷さ。娼婦だとあまりにストレートだからか、あるいは世相的に映画に娼婦を登場させることがはばかられたのか、定かではないけど。

 いずれにしろ、自分的には非常にしっくりくる解釈です。一票入れたい。

 「平和の式典」でのモニュメント

 あれはわかりやすいですね。政治家たちの体裁や自己顕示欲のために国民の税金が使われ、立派なモニュメントが作られる。でも、庶民にとっては、そんなもので空腹を満たせるわけもない。案の定、普段は誰も見向きもしない邪魔な建造物になるだけ。

 被災地復興を後廻しにして、オリンピック用の無駄に立派な施設をせっせと作っている、どこかの都市がやっている事とまったく同じです。

 社会の理不尽さは、1930年が2020年になろうが、なにひとつ変わっていない。僕はそこに絶望を感じます。100年近く、誰かが映画や音楽を媒体として訴えて共感を得ても、100年近くたっても、結局は何も変わっていないということに絶望できます。

 さて、ラストシーンの解釈

 目の手術に成功し、今や生花店を経営している花売り娘が、長年夢見ていた白馬の騎士・チャップリンとの再会を果たすシーン。

 ハッピーエンドかバッドエンドか、両論あります。

 花売り娘に笑顔はありません。戸惑いの表情で「あなただったの…」と言います。その後「目は治ったの?」と聞くチャップリンに、同じく笑顔なく「はい、治りました」と言う。

 そこで唐突に映画が終わるため、その後どうなったのか?が観客の想像に任されているわけです。

 まず、娘が笑顔ではなく戸惑った表情なのは当然のことです。お金持ちの紳士だと思っていた白馬の騎士が浮浪者だったのだから。問題はその後どうなったか、笑顔になったのか、それともずっと戸惑ったままなのか。

 二人はそのまま永遠に会う事はなかった…?

 映画全体が、強者と弱者、富豪と庶民、二極に生きる人間の交流とその「わかりあえなさ」を描いている。元は弱者だった花売り娘が、今や成功者となって生きるステージが違ってしまった以上、二人が寄り添って生きることはない、という解釈。それも充分にありえます。だから切ない、哀しいラストなのだといえば、その通り。現実的で残酷な解釈。

 二人は寄り添って生きて行った…?

 どなたかが「目は治った?」「はい、目は治りました」という会話を、以下のように解釈されていました。

 「今までイケメンのお金持ちだなんて夢のようなことを考えていたけど、現実は浮浪者のアナタだった。」そう思った花売り娘は、いかに自分が「見えていなかったか」を悟る。盲目だった頃に「見えていた」ことが、手術で視力を取り戻したときに「見えなくなっていた」ことに気付く。

 そこでの「はい、目は治りました」は「もう夢は見ません。(今)現実が見えました。」ということ。

「人は容姿やお金のアルナシではない(もっと大事なものがある)。」ことに気づいた。手術で視力を取り戻したということ以上に「もう見誤らない(容姿やお金のあるなしに惑わされない)」という意思表示。なるほど!な解釈です。

 そうなると、二人は寄り添って生きて行ったでしょうし、優しいハッピーエンドということになる。

 「街の灯」が名作となりえたのは、この結末を描かず、どちらにも取れる解釈を観客に委ねたこと。

 やはり、チャップリンは映画の神様だ。


 ▼個人的に、チャップリンを一度も観たことないという人には、「街の灯」より「モダン・タイムス」をおススメはしますが…。

cinema.kamuin.com